入会のご挨拶
初めまして、この度日本推理作家協会に入会させていただきました琳と申します。「『都市伝説パズル』と後期クイーン的問題」という書評で日本推理作家協会70周年書評・評論コンクールに入選くださり、これだけでもびっくりしましたが、まさか商業出版物への執筆経験ない身にして入会の栄誉にまで与ることになるとは思いもよりませんでした。代表理事の今野敏さんを始め、私のような素人にこのような機会を与えてくださった選考委員や理事の皆様には感謝の言葉しかありません。
私はtwitterで琳@quantumspinと名乗っており、このquantumspinというのは大学当時研究していた量子スピン系という磁性体の基本模型からいただいたのですが、語感をいたく気に入っており、筆名はこのままにしようかとも考えましたが、皆さん縮めて琳と呼んでくださるので、やはり琳と記す事にしました。
昔からのミステリ好きが高じて自然科学を好むようになりましたが、この過程はあまり主流ではないようで、どちらかというと皆さんパズルとか数学とかゲームとか、人工物とミステリとを結びつけ考えておられるようです。でもよく考えると、大抵のミステリは探偵が推理を構築し披露しただけでは終わらないわけで、客観的事実によって探偵の推理の答え合わせをやらされるわけです。人工物たる推理と、自然物たる事実との一致度の精査というこの構図は、どこか自然科学研究を感じさせるものです。むろん大抵のミステリは事実と推理とが一致するよう意図して設計されるものですが、作品世界を生きるキャラクターの自意識が、パズルの如き人工美で作品を閉じようと目論む作者の意図をすり抜けてしまうからこそ、時として事実と推理との食い違いをこそ主題とし、人間の無力さを浮き上がらせるような作品までも描かれ得るのだと感じられます。私はこうしたキャラクターの(そして創造主たる作者の)在り様を見るにつけ、バベルの塔で天上を目指す人間の有限さと、無限遠点に鎮座するスピノザの神への畏敬の念と、それでも高みを目指さずにいられない人間精神と、パズルでは味わえないその崇高で果てなき構図の美が逆説的に浮かび上がるようで、だから私はこのジャンル小説を自然科学と兄弟のように愛してしまうのです。科学者然としたシャーロック・ホームズや、神にひれ伏すエラリー・クイーンに惹かれるのも、おそらくはこのあたりが関係しているのかもしれません。
しかし、スピノザの神にお伺いを立て自足していた身としては、自らを神と引き受ける物語作法には未だ慣れません。コンクールを知った私は第一稿を書き上げ自信満々に奥さんに見せたのですが、驚くほどさんざんな評価を頂戴してしまいました。私の奥さんは小説投稿サイトに作品を発表している方で、あらゆる文章に彼女なりの神学があるようなのですが、書評を事実言明ではなく物語と読み解く彼女の常識が理系には大変意表をついたもので、今更ながらいたく感銘を受けた記憶があります。そこで、論理展開をミステリのようなアクロバティックなものに組み変えたところ、これを評価され入選に至ったわけで、だからもし入選作が僅かなりとも文芸作品として読める水準に仕上がっていたなら、それはひとえに彼女の視座の賜物に外ならないわけです。
体感的に、評論はテクスト解釈の発明行為と勝手に腑に落ちています。私は仕事上特許発明に関わる機会も多いのですが、特許発明の世界では、公然知られておらず、当業者が容易に想到し得ない弁証法的言論に権利を与えます。自然科学研究では神と崇められた事実関係が特許発明では制約条件と見做され、自然科学者の方は少々冒涜的と感じられるかもしれませんが、でも両者は相反するものではなく、一方で発明によって自然の様相が一変し、他方では科学革命が新たな発明を育み、そうして車の両輪のように人類の営みを進歩させているわけです。
むろん評論におけるテクストや史実といった事実関係の重要性は言うまでもないですが、評論が文学研究でなく文芸作品であるなら、やはり事実関係は目的というよりもむしろ制約に近いものと感じられます。この制約下で一般読者では容易に想到し得ないテクストの意義を開拓する事が評論家の使命なら、そして評論が小説と共にジャンルを発展させる車の両輪なら、やはり評論行為と特許発明とはとてもよく似た兄弟のように感じられるのです。
一方ではスピノザの神に跪き、他方では弁証法的言論の蜘蛛の糸をくぐりぬけ、私はこうした環境で普段の社会生活を営んでおりますが、私にミステリを読む事を強い、さらには論じさせるまで至らしめたこの環境に、自らを神と引き受ける皆様の視界が重なる事で、ミステリの行く末を知る糸口をつかめるとすれば、私にとってこれに勝る喜びはありません。今後ともご指導、ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願いします。