ささやかな願い
――作家になりたい。
ガラス越しに流れゆく美しい風景を見ながらは、私はため息をこぼす。
幼き頃から物語に親しみ、高等学校に入校してからは、物を書く仕事に就きたいと明確に強く願うようになった。
血湧き肉躍る冒険小説。名探偵が不可解な謎に挑み、名推理で事件を解決する探偵小説。多くの英雄が八面六臂の大活躍をする歴史時代小説。空想が無限大に広がる科学小説など。
書きたいことは山ほどあり、ペンを持てば、自然と胸から言葉はあふれ出てくる。
大学も文学部へ進んだのは、少しでも作家になる近道だと思ったからだ。
一部の天才を除き、作家となるためには、自己の内面と真剣に向き合い、並々ならぬ努力と修練が必要なことは分かっている。その積み重ねた汗と涙の上に、さらに運や縁も必要なのだろう。
またこのご時世、作家になったとしても、生きていけるのはわずか一握りの人々なのだ。
作家になりたいという心の燃えたぎる思いを両親に告げた時、父は反対した。
「物書きで食っていくなんて夢を持つのは、身の程知らずだ。自分自身を不幸にするぞ。ただ……目指すのなら、諦めるな」
母は険しい顔の父をなだめ、不安げに呟いた。「あなたが本当にその道を望むのなら、母さんは応援するけど……」
母のことを思うと、狂おしく愛しい想いが、せきを切ったように身体中にあふれ出す。
児童雑誌を最初に買ってくれたのは母だった。興奮して頁をめくる自分を見て、それからも両親は、多くの本を与えてくれた。めくるめく幸せな時間だった。本の世界にいるときは、古今東西の英雄になり、名推理を披露し、世界を駆け巡り、あまたの友と愛する人を得た。
自分がそうであったように、多くの人に夢と希望を与える物語を、書いてみたいと思った。
戯れて短い話を書いてみた。父も母も驚き大げさにほめてくれた。今思えばもっと両親の喜ぶ顔が見たかったのだと思う。
だが、だが――。
その道は、永遠に閉ざされてしまった。
それとなく別れの挨拶をした時、母は号泣した。
「わたしの、せいなのね……」
有機ガラス越しの景色が、かすんでゆく。愛するふるさとから、みるみると離れてゆく。
私には運がなかったのかもしれない。もし文学部でなければ……。もう少し若ければ……。
一年半前の昭和十八年十月二十一日、降りしきる冷たい雨の中、明治神宮外苑競技場を、勇壮な音楽に合わせて行進した。
学徒出陣――その時に自分の運命は、決まってしまったのだろう……。
狭い隼の操縦席から見る春の空は、青く澄み渡り、棚引く雲がにじんで見える。
二百五十キロ爆弾を抱いて知覧飛行場から飛び立ち、二時間が過ぎた。先頭の隊長機が翼を揺らす。いよいよ特攻だ。
――英雄や名探偵でなくてもよかった。
両親の愛に包まれて育ち、多くの友に囲まれ、愛する人と出会い、家庭を持ち、子供を授かり、幸せな家族となり、やがて年老いて、多くの笑顔に見守られながら、この世を去る。
そんな平凡でありきたりな人生を歩みたかった。そんな物語をつづりたかった。
ささやかな願いは、もうかなうことはない。
胸にあふれんばかりの物語を抱き締めながら、手にした操縦桿を握り直して呟く。
「父さん、母さん、ごめんなさい……」
私は、作家に――なりたかった。
はじめまして神家正成と申します。宝島社主催の『このミステリーがすごい!』大賞の優秀賞を受賞して二〇一五年三月に自衛隊ミステリー『深山の桜』でデビューいたしました。
木下昌輝さんが提唱されている「#記念日にショートショートを」という活動に参加しており、記念日やテーマに沿ってショートショートを、SNSなどで公開しております。
皆様へのご挨拶ということで「十月二十一日」というテーマで一編書きました。楽しんでいただけましたら幸いです。
作家になりたい――と私は思ってはおりませんでした。
自衛官であった父の部屋は、本で埋め尽くされており、そんな父の薫陶を受けて育ちました。幼い頃から物語には親しんできましたが、まさか自分が物語を書く立場になるとは、想像すらしたことはなかったのです。
中学校を卒業して自衛隊生徒という自衛官かつ高校生という道に進み、最終的には冷戦時代の北海道で七四式戦車の操縦手を務めておりました。ベルリンの壁の崩壊を見て、もっと広い世界を知りたいと思い、依願退職して新しい道を選びました。
紆余曲折しながらさまざまな職を経験し、不惑を過ぎた頃、物語を書いてみたいと、ふと思ったのです。
四年ほど投稿生活を続け、何とかデビューして、作家生活は五年目を迎えております。
自衛隊にいたという経験を活かし自衛隊ミステリーをシリーズとして書いておりますが、元々は歴史時代小説が大好きで、さまざまなジャンルの物語を書いてみたいと思っております。
韓国と縁があり、韓国人の妻と家庭を持ち、大学生の娘とうさぎと日々おもしろおかしく暮らしております。
私のささやかな願いは、かないました。
かなわなかった多くの方の想いと願いを胸にいだき、一歩一歩愚直に物語に取り組んでまいります。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。