ミステリ演劇鑑賞録

第四回 カーテンコールのない演劇

千澤のり子

 舞台鑑賞時の最大の楽しみといってもいいくらい、カーテンコールが大好きである。役者たちの素顔が垣間見え、謝辞を直接いただくことで、作品との距離が近づいたように感じられるからだ。
 逆に、たまたま今年度、カーテンコールのない演劇を二作品鑑賞した。非常に珍しく、確率では百本に一本あるかないかだろう。
 一つは、第十回せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ作『夜色の瞳をした少女、或いは、夢屋敷の殺人』(二〇二二年一月二十三日鑑賞/調布市せんがわ劇場)。新型コロナウイルス感染防止の影響で、公演は再々延期となっていた。
 役者は、公社流体力学という名の、年齢不詳の男性のみ。本編が七十五分、おまけが十五分と、上演時間は短めだ。大道具も音楽もなく、「これは演劇ではない」という前置きのあと、渋谷のバーで聞いた話から本編が始まる。
 突如役者が語りだす内容は、夢で見た密室殺人の謎を解くというものだった。屋敷の中で少女が刺殺されている。ほかに人はいないのに、一体誰がどうやって殺したのか。一見シンプルでありながら、あらゆる可能性を否定していく。「どんなこともできるミステリは面白くない」と往年の特殊設定批判をおこない、知覚心理的なアプローチから真相を導き出す。舞台装置を用いない、パフォーマンスだけでミステリを演じきった異色作である。
 本編が終わった途端にアフタートークが始まり、具体的な作品名を用いた密室談義となった。本当に終わったのかどうかも分からないまま、役者は舞台から去り、会場の明かりが点いた。何を見せられたのか呆然とした観客は私だけではなかっただろう。カーテンコールがなかったからこそ、夢の中の出来事だったように思えてくる。
 もう一本は、劇団時間制作第二十五回本公演『12人の淋しい親たち』(二〇二二年九月二十二日~十月二日東京芸術劇場シアタークエスト)。母親による三歳の男児虐待殺人事件について、十人の陪審員たちが決議をするという内容だった。
 評決は有罪か、情状酌量の余地があるか。全員一致で有罪判決と思いきや、一名が反対の声をあげるといった流れは、レジナルド・ローズ『十二人の怒れる男』と同様である。室内が暑かったり、ナイターを見に行く予定の人がいたり、ところどころで題材となった作品の空気がうかがえる。
 ミステリ部分だけを取り上げると、真相はすぐに解けた。元ネタを知っていれば結末の想像もつく。だが、主題はミステリではない。物語は陪審員とはなんたるかにシフトし、親であることの意味やネグレクトの境界線を観客にも問いかけているように感じられる。ラストは、評決に対するアナウンスが入り、一瞬場内が真っ暗になり、陪審員たちの動きだけで結末が分かるという演出だった。カーテンコールがなかったせいか、退席してからも緊張感が残っていた。
 これらの二作品を観たことにより、演劇に対する捉え方が変わってきている。