御挨拶にかえまして
宮内悠介
このたび、協会に参加させていただくことになりました、宮内悠介と申します。どうかよろしくお願いいたします。私は『盤上の夜』というSF作品でデビューしたのですが、元は推理小説を多く書いておりまして、だからこそ、日本推理作家協会は憧れでもあり、まだいまだに遠く感じるものでもあり、ただ恐縮するばかりです。
ですから、何をお話しするべきか迷ったのですが、やはり、私と推理小説との関わりについて述べさせてください。
さて、私は元は理科系であったのですが、高校生のころに新本格ミステリに嵌りまして、以来、人をあっと言わせる小説を書いてみたいという素朴な衝動とともに創作をはじめました。そうして、勢い余って志望を文学部に変え、大学在学中はワセダミステリクラブに入会しました。もっとも、卒業を迎えるころには志向は文学へ移り、やがてバックパックを抱えて日本を出るようになったのでした。「人や世界を描きたい」と思うに至り、そのための経験が圧倒的に不足していると考えたわけなのです。
そういえば、何がどう屈折したものか、私は「旅に意味はない」などと言い放ち、また「自分探し」といった常套句を嫌っていました。しかしいま振り返れば、あれは自分探し以外の何物でもありません。ともあれ、私は七十年代の世界旅行ブームをなぞるように、大きな荷物を抱え、国境から国境へ移動していたのです。
そんななか、一つの事件が起きたのでした。
あまり詳しくはお話しできないのですが──当時、私は一人の女性の同行者を得て、アジアの一角を移動しておりました。仮にNとしておきましょう。Nは不思議な独特の視点を持った人物で、街という街で私に発見をもたらしてくれました。それは私にとって、移動するごとに内面が開けていくような体験だったのです。
しかし、いったん再会を誓って別れた直後、Nは不審死を遂げました。
事件には多くの疑問があり、殺されたものと私は考えました。
どうあれ、受け入れられる事態でもありません。自分を責めもしました。そんななか、私は奇妙な思考を抱くに至ったのです。高校のころから「人死に」の謎を好んできた、その因果が自分に返ってきたようであると。「謎は解けない」という事実がどれだけ人を苛むか、そんなことすら私は知らなかったのです。
私は「捜査」をはじめました。
警察や領事館へ赴き、Nの足取りを追い、また片言の外国語で証言を集め、Nの身に起きたことを再現しようと試みたのです。同じ目的を持つ同行者も得ました。周囲は、私たちが第二の被害者になることを心配しましたし、真実を知りたいという自分の欲求も、遺族の感情と相反するものです。しかし私が海外へ出たのは、そもそも「見る」ためだった。私はこれが作家になれるかどうかの分岐点であるかのように思い、聞きこみをつづけたのでした。
文字通り靴底が減りました。
かつて読んだ本のいくつかが脳裏に蘇りました。不思議なものと言いますか、それは「人間が描けていない」とされた黎明期の新本格ミステリだったのです。そして、偶然は重なるもので、私はそのうちの一冊と、現地の古書店の一角で出会いました。
日本語に飢えていたこともあり、貪るように読みました。
謎が解けるということが、どれだけありがたいことなのか。探偵という存在が、どれだけ砂漠における一滴の水なのか。──それは現実逃避であったかもしれません。しかし一つの事実として、私はその本から活力を得て、前を向くことができたのです。
実を言いますと、事件の輪郭は見えてきていました。最後まで解き明かしてみたい誘惑にもかられました。しかし、私は探偵ではない。いまだ何者でもない、優れた頭脳も経験もない、一人の旅行者にすぎなかった。ただ一つロジカルに類推できることは、心配して帰りを待つ人間がいるということのみでした。
そうして、私は事態を受け入れ、次の旅へ出ることができたのです。
長々と、個人的なことを振り返ってしまいました。
と言いますのも──私の作品は、「知」に偏ったものが多く、また、人というものにさほどの興味がないようでもあります。それはなぜか。ほかならぬ、そのような作品によって、私は救われた体験を持つのです。どうでもいい個人の話には違いないのですが、それでも、私はどうしてもこのことをお伝えし、何物かへの感謝を述べたかったのです。
最後に、入会の機会を与えてくださった新保博久様に、この場を借りてお礼申し上げます。今後、皆様にはお世話になることと存じますが、どうかよろしくご指導のほど、お願い申しあげます。