転職人生。たどり着けば小説家。
このたび、山前譲さんと草凪優さんにご推薦していただき、入会させていただいた沢里裕二と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
推薦していただいたおふたりには、心より感謝いたします。
私の書く作品の属性は、厳密に申せば官能小説であります。たとえば『処女刑事』などというタイトルで警察小説の形式をとっていても、内容は官能小説であります。勘違いして購入する方が無いように帯に<警察官能>などとただし書きを入れていただいている次第です。
どうかこのような作品を広義におけるエンタテインメント小説として、認めていただければ幸いです。
作家としての本格デビューは二○一二年に第二回団鬼六賞にて優秀作をいただいたのちからです。受賞時点で、すでに還暦を過ぎておりました。
今年で六十二歳になります。永らく勤めました会社員としての生活を、この六月で卒業いたし、いよいよ執筆に専念です。
こう書きますと、いかにも定年退職をしたおっさんが、第二の人生は、小説家にでもなろうか、と趣味的に入ってきた男に受け取られそうですが、決してそんな軽薄な考えで、この世界に入ってきたわけではありません。
真摯に小説と向き合う覚悟でございます。
もっと早く、専業作家になりたかった、というのが本音ですが、一方でサラリーマンも全うしたかったということもあります。
エンタテインメントの仕掛け人として、やりたいことがたくさんあったため、会社を転々としたのですが。最後に小説家に就職することにいたしました。
大学卒業後広告代理店に就職、まずコピーライターになりました。言葉で大衆を唸らせるという仕事にやりがいを感じました。
この時、先輩コピーライターに、のちに作詞家として有名になる売野雅勇さんがいます。言葉の選び方はもちろん、そのスタイリッシュな生き方そのものに、とても影響を受けたものです。
売野さんは、当時の雑誌POPEYEが提案するライフスタイルを地で行くような方で、憧れの存在でした。
三年後レコード会社に再就職。宣伝部と制作部に所属し、ここではアイドル歌手の楽曲制作と売り出しを中心にやってまいりました。アイドルを通じて、若者たちのファッションや生き方に影響を与えるのは楽しい仕事でした。
それから十年。さらにいろいろやってみたい私は、またまた転職。
ジョブホップという言葉が流行っていた八十年代のことで、この頃は転職数が多いほうが泊が付くような気風がどこかにありました。
三社目は出版社の扶桑社でした。書籍編集部と週刊SPA!に勤務。
書籍編集部時代はのちに作家になる故吉村達也氏、五十嵐貴久氏と共に働いております。まったく同じ編集部で、故吉村達也氏が編集長。私は副編集長。恐れ多いことに五十嵐貴久氏は部下でありました。
当時の扶桑社は、まさに自由闊達な雰囲気で、それぞれが本当に勝手な仕事をしているのですが、それでもどうにか成果がでるという、不思議な空気に包まれた会社でした。バブル真っ盛りの頃です。
それから四年。私はまたレコード会社に戻ります。四番目の会社は、二番目に就職した会社とは違う外資系レコード会社。バブルが弾けた頃の入社で、見事四年後にリストラされました。
というわけで、九十年代後半、四十代半ばで、ようやく国内系老舗レコード会社に落ち着きます。五度の転職の末にみつけた安住の地でありました。
以来先月までこの会社にお世話になったわけです。十八年ほどの勤務です。
この間、ずっと小説を書きたいと思っておりました。八十年代後半から、別名義数冊で上梓してまいりましたが、やはり兼業の感は免れませんでした。
ようやく本腰を入れて、歯を食いしばり書くようになったのは、五十代の終わり。
これまで経験してきたエンタテインメントの裏方としての経験を生かして、とにかく面白い小説を書けないかと、一念発起したのです。
エンタテインメント小説の一環として、官能小説をもっと面白くできるのではないか、と考えました。知性のエンタテインメントが推理小説であるように、本能のエンタテインメントとしての官能小説があってもよいのではないでしょうか。
自分は、洒落て面白い官能小説を目指しております。江戸時代の戯作者のように、官能小説という形で、少しは世の中をからかうのも面白いと思っています。
そんな気持ちで書いた『淫府再興』という作品で、団鬼六賞の優秀作をいただくことが出来ました。選考委員の高橋源一郎さんと石田衣良さんが、私の書く物語のバカバカしさを評価してくれたのです。このおかげで、六番目の就職先は官能小説家となったわけです。
今後も真摯に、ばかばかしく洒落心に満ちた官能小説を書いてまいります。少しは頭脳も働かせることのできる作品を心がけます
どうか伝統ある日本推理作家協会の新入社員として、迎え入れていただければ、幸いです。