早く「作家」になりたい
はじめまして。河合莞爾と申します。二〇一二年、角川書店(現・KADOKAWA)主催の新人賞「横溝正史ミステリ大賞」にて、『デッドマン』という作品で大賞を頂いてデビューすることができました。どうぞよろしくお願いいたします。
ところでこの度「日本推理作家協会」の一員にして頂いたのを機に、ふと大きなの疑問が湧いて参りました。それは、私は本当に「作家」なのかということです。
もし、筆一本で食っている人が作家なのだとしたら、私は間違いなく作家ではありません。文筆だけで生計を立てることはできす、今もデビュー前と同じく会社勤めで糊口を凌いでおります。
いや、食えてなくても文章でお金を頂いている以上自分は作家なのだ、と思い直してはみたものの、よく考えるとこれまでに出した六冊の単行本は全て書き下ろしです。印税を頂いてはおりますが、原稿料は「無料」なのです。つまり、タダで書いた原稿を本にして頂いて、その売上の一部を頂戴しているのであって、文章に対してお金を頂いている訳ではないのです。
とは言え、一応本を出しているのだから作家だろう、とも考えてみましたが、すぐに私の叔父も自費出版で回顧録の本を出したことを思い出してしまいました。いやいや、こっちは出しただけじゃなくて書店さんで売ってもらってるんだから、と自分に言い聞かせようとしても、自費出版でも委託料さえ払えば書店さんに置いて頂けることを、あいにくと私は知っております。
それでも本を出せば買って下さる方がいらっしゃいますから、少なくともご愛読者様にとっては私も歴とした作家なのだ、と思い込もうとしました。ですが、そういうご愛読者様の書評ブログを拝見したりしますと、来訪者の数が私の本の部数よりはるかに多かったりして唖然といたします。おまけに私は、そんな方が書かれた本の感想を読ませて頂くのが楽しみで、しょっちゅうブログを訪れてはじっくりと拝読しておりますから、どっちが熱心な読者なんだかわかりません。
ついでに申し上げますと、実は私、ご愛読者様のブログ以外にもネット書店さんで自分の本のレビューを見るのも大好きでして、ヒマがあると新しいレビューが増えていないかと頻繁にウェブサイトを訪れたりしております。それどころか、Twitterを自分のペンネームで検索して、本を買って下さった方はいないか、読んで悪口を言っているヤツはいないかと、夜中にこっそりチェックしたりしております。
そして本を褒めて下さった書き込みを発見したりしますと、欣喜雀躍して一人で部屋の中を走り回り、ケチョンケチョンにけなされていたりしますと、ガックリと膝から崩れ落ちて三日ばかり立ち直れなかったりするのですが、そういうのは本当に作家らしくない行為だと自分でも思っております。
私は一体、作家なのでしょうか?
新人賞を頂いた当初は、周囲も「小説の賞を取るなんてすごいね!」と感心してくれたのですが、ヒット作が出ないまま時間がたった今は、「あの人、本は出すけど全然売れないね」と陰で同情されているような気がいたします。小説の新人賞は、プロ野球のドラフト会議に似ているかも知れません。指名された直後は「神童だ、天才だ、郷土の誇りだ」と持ち上げられますが、常時試合に出て活躍していないと「本当にダメだな、アイツ」とか「才能ないんじゃない?」と言われるようになってしまうという、何とも恐ろしい――。
すみません、つい愚痴を書いてしまいました。
でも、やはり作家とは、原稿料を頂いて文章を書き、それが本になって印税が入り、筆一本で家族を養っていける人でなければならないような気がいたします。そして、尊いお金を出して下さるご愛読者様に楽しんで頂くのは勿論のこと、出した本がたくさん売れることで、出版社、デザイナーさん、校閲さん、印刷所、製紙会社、製本所、書店さんなど、本に携わる全ての方々を幸せにできなければならないとも思います。
こう考えて参りますと、どうやら私はまだ作家ではないようです。そして一体どうすれば作家になれるのか、その方法は今もわかりません。
ただ、幸いなことに私には、まだ声をかけて下さる出版社の方がいらっしゃいますし、書いたものを面白いと思えば本にして頂けます。きっとそんな編集者の方々は、厚かましい想像かも知れませんが、「こいつの本は、もしかすると売れるかもしれない」と考えて下さっているのではないでしょうか。それは言い換えれば、「こいつは作家になるかも知れない」と期待して下さっているのだと思います。そのご期待には、いつか応えなければならないと思います。
作家になることは、今も私にとって夢であり憧れです。いつか堂々と胸を張って「私は作家です」と言える日が来るように、これからもただ、がむしゃらに原稿を書き続けていこうと思います。どうぞ皆様、よろしくご指導をお願いいたします。