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2020年 第66回 江戸川乱歩賞

2020年 第66回 江戸川乱歩賞
受賞作

わたしがきえる

わたしが消える

受賞者:佐野広実(さのひろみ)

受賞の言葉

「ベティ・サイズモア」という映画で、主人公のベティがLAに向かう途中、安っぽいレストランに立ち寄る。そこの女主人が、昔金をためてローマ旅行に行った話をして、こう続ける。
「あの時の思い出があるからこそ、今もわたしはここで我慢できている」
 あるいは「バベットの晩餐会」という小説は映画にもなっていて、素晴らしい料理が人の心を知らぬ間に解きほぐすさまが描かれていた。
 この度、名誉ある乱歩賞をいただいたのを励みに、この女主人にとってのローマ旅行やバベットの素晴らしい料理と同様の小説を書けたらいいと思わずにいられない。
 ミステリーに限らず、小説というものはある種の感情とともに読む人の記憶に残るものでありたいと考えている、ということだ。
 と同時に、色々な方々の励ましに支えられてここまで来られたことを考えれば、小説を書くことこそが、わたしにとってはローマ旅行や素晴らしい料理と同じものであることも、わかっていただけるのではないだろうか。
 残された時間というものは、短いと思えば短くなるし、長いと思えば長くなる。そう信じて頑張っていきたいと思っている。

作家略歴
一九六一年四月二十二日横浜生まれ。
横浜国立大学卒。
第六十六回江戸川乱歩賞を「わたしが消える」により受賞。
『新青年』研究会会員。

選考

以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。

選考経過

選考経過を見る
 本年度江戸川乱歩賞は、一月末の締切までに応募総数三八七編が集まり、予選委員(香山二三郎、川出正樹、末國善己、千街晶之、廣澤吉泰、三橋暁、村上貴史の七氏)による選考が去る四月二十七日、昨今の状況を鑑みリモートにより行われ、最終的に左記の候補作四編が選出された。

「ブルー オン ブラック」
井上 雷雨
「エスカレーションラダー」
小塚原 旬
「わたしが消える」
佐野 広実
「インディゴ・ラッシュ」
桃ノ雑派

 この四編を六月八日午後四時よりリモートにて選考委員の綾辻行人、新井素子、京極夏彦、月村了衛、貫井徳郎の五氏による協議の結果、佐野広美氏の「わたしが消える」を本年度の江戸川乱歩賞と決定した。
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選評

綾辻行人[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 あえてまず述べておこう。推理小説(=ミステリー)で最も重要な構成要素は「謎とその解明のあり方」である。これはいわゆる「本格ミステリ」に限った話ではなくて、本賞で募集している「広い意味での推理小説」であっても基本的にはそうだろう――と、少なくとも僕は考えている(「基本的には」なので当然、例外は存在するわけだが)。
 今回の選考で感じざるをえなかったのは、総じてこの「謎とその解明のあり方」が弱い(どうかすると蔑ろにされている)という問題だった。「魅力的な謎と意表を衝く解明」は、推理小説という文学形式が持つ最強の武器でもあるだろうに。そこを鍛えてもっと攻めてきてほしい――と、これは今後の応募者に向けての個人的な要望である。
 そんな中でも今回、作中の「謎」にいちばん魅力を感じたのは佐野広実『わたしが消える』だった。「介護施設の門前に置き去りにされた認知症の老人は何者か」という序盤の地味な「謎」が、物語の進行とともに厚み・深みを増しながら読み手を引き込んでいく。中盤から終盤にかけての大きな展開については、日本の警察組織等の実態から見て非現実的すぎる、という指摘もあり、それは確かにそうなのだろうが、修正可能な誤解や誤謬は正すにしても、あとはもう「フィクション」として目を瞑ってもいいのではないか。そう考え、授賞に賛成した。ちなみにこの小説、全編が一人称で書かれているのだが、最後の最後まで語り手を示す人称代名詞(わたし)が使われない。作品的な意味があっての書き方だが、相当なテクニックを要する。これを成功させていることからも、この作者の力量が察せられて頼もしい。
 最後まで『わたしが消える』と競ったのが井上雷雨『ブルー オン ブラック』。とてもリーダビリティの高い作品で、主要登場人物のキャラも立っていてストレスなく読めてしまう。全体のバランスも良いし、完成度も高い。しかし悲しいかな、「少女はなぜ家出したのか」というメインの謎に対する答え(解明)に創意が乏しすぎる。著名な先行作品もあるし、日々のニュースで類似の社会問題を目にする機会が多い読者はもはや、さほどの衝撃も受けないだろう。ここから「さらに意表を衝く真相」が用意されていなければ、現代の推理小説としては通用しないのではないか。
 ある意味で惜しかったのは、桃ノ雑派『インディゴ・ラッシュ』。ビンテージデニムやデニムハンターという題材の面白さに加えて、冒頭になかなか魅力的な謎も現出する。ところが、そのあとはマフィア相手の派手な活劇がメインになってしまい、これはこれで面白くはあるのだが、せっかくの題材と謎が結局、十全に生かせていない。
 小塚原旬『エスカレーションラダー』には大いに難を覚えた。とにかくまず、現代日本の政界を舞台にしたポリティカルフィクション的なパートが、厳しい云い方になるが、読むに堪えない。政党も政治団体も政治家も、名が変えてはあっても何が(誰が)モデルなのかが容易に察せられるのだが、かといって気の利いたパロディにもなっておらず……そういった中で物語を進められても鼻白むばかり。あまつさえ、並行して発生する殺人事件の謎と解明にも、膝を打ちたくなるような美点は見出せなかった。
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新井素子[ 会員名簿 ]選考経過を見る
『エスカレーションラダー』。このお話……作者は、何を書きたかったの? それが一番問題だと思いました。
 政治の話を書きたかったのなら、その部分をもっとちゃんと書かないと駄目だし、主人公芹沢の成長を描きたかったのなら、書きようというものが他にある。シーンによってあまりにも芹沢のイメージが違いすぎ。その上、「これはまさに誠意のない男の見本だ」みたいな描写がずっと後まであり、芹沢にまったく共感できません。
『インディゴ・ラッシュ』。ヴィンテージ・ジーンズ・ハンターって設定は面白かったし、「百年以上前に閉じられた鉱山に、何故か新しく見える死体がいくつも、そしてその死体は第二次世界大戦中に作られたジーンズを履いている、その上、あるいは、1870年のジーンズを……」っていう、時間軸いくつも矛盾した謎があるのに、これが全然楽しめない。プレゼンテーション、下手すぎです。
 マフィアとかなくして、素直にジーンズの話に絞ったらよかったんじゃないかという気がするんですが。
『ブルー オン ブラック』。家出してしまった少女を探す探偵の話。この作者、手慣れてます。読みやすいし、テニス部の生徒の会話なんか、それだけで少女の立ち位置が判るし。ヒロインの探偵・透子の造形も、少女達に感情移入してゆく状況が判るものだし、ラストも希望があっていい感じ。
 これは多分、商品として流通していてもおかしくないお話だと思うんですが。けれど。あの、ごめんなさい、新味というものが、まったくないんです。少女が周到に用意して家出した――ということは、理由はあれか?――あれ、だ。一事が万事この調子で、素直に読めるんだけれど、驚くことが何もないの。新人賞応募作としては、これが最大の傷でした。
『わたしが消える』。交通事故で脳の検査をして、はからずも自分が認知症の前段階にあるって知らされてしまった主人公が、施設の門前に置き去りにされた認知症のひとの過去を探るお話。
 このお話、私はもう、認知症部分が切なくて。ここはとてもいいと思います。ラストの、今更埋めようがない過去を、それでももう一回取り返そうとする主人公も素敵。
 ただ……クライマックスシーンが。私は警察関係ってまったく判らないんですが、さすがに、いくら何でも、この黒幕はあんまりじゃないかと。
 と、まあ、色々ありましたが。最終的に。『わたしが消える』が受賞となりました。
 作者の方は、去年も最終選考に残った方だそうです。おめでとうございます。どうか、がんばって、勝手なことを言っている私の思惑を蹴散らす第二作を書いてください。
 とても楽しみに待っております。
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京極夏彦[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 江戸川乱歩賞は〝広義のミステリ〟を募集するものであり、厳密な定義はない。従って必ずしも〝謎と解明〟を要求するものでもない。しかし作中で謎を提示するのであれば、その作品は作品総体としてその謎と真摯に向き合う必要があるのではないかと考える。
『エスカレーションラダー』のポリティカルフィクションにミステリ的な趣向を取り込むという試みに関しては新しさを感じる。但し、恣意的な隠蔽や偶然性に依拠した展開はミステリ的な趣向としてはかなり弱いものであるし、作品の大きな核となるトランスジェンダー問題とストーリーを牽引する政治的権謀術数にも直接的な繋がりは見出せない。結果的に過去の事件と現在の事件が主題的にも物語的にも乖離してしまっている。また、現実の政治状況をあまりにもダイレクトに連想させる書き振りはマイナスだったのではないか。
『インディゴ・ラッシュ』はデニムハンターという目新しくも魅力的な素材を扱っており、その点においては大変に面白く読ませてくれる。主要人物の造形や描写も達者ではある。ただ物語は反社会的組織とのアクション抗争劇の体裁になっており、プロットにも無理が生じている。結果的にそうした数々の長所が活かされているとは言い難い仕上がりになってしまった。冒頭で示される蠱惑的な謎も、作中ではほとんど謎として扱われておらず、情報開示の際のサプライズもない。素材と料理法、そして器がマッチしていないのだろう。提示された謎を軸に据え、ヴィンテージデニムへの偏愛を動機とした争奪劇などに仕立てられていれば、傑作になっていたかもしれない。
『ブルー オン ブラック』は可読性も高く、設定やキャラクター造形もそつがない佳作ではある。DVや性的虐待を扱うが、主人公の行動様式が終始ポリティカル・コレクトネスに則られており、またストーリーテラーとしての技量も優れているため、悲壮な展開でも安定感をもって読み進められる。その点は高く評価したい。ただ意外性が殆どない。謎に対する解答も予想される範囲内であり、驚きはない。むしろ主人公が行動様式に反した判断をするシークエンスのほうが印象に残ってしまう。巧みな書き手と思われるだけに惜しい。
 受賞作『わたしが消える』は、キイワードとなる認知症が全編を貫いており、主題/物語/語り口に隔絶はない。のみならず最初に提示される謎に対する解明こそが作品そのものを構成しているというシンプルな構造でもある。技巧を凝らした文章もこのコンセプトを担保するための手段なのだろうが、過度な趣向に陥ることなく、筆致には枯淡の趣さえ感じられる。だが、それに反して明かされていく真相のスケールは決して地味なものではないし、小さいものでもない。抑えた書き振りが韜晦しているが、この、中盤以降の陰謀論を背景とした展開は、ややリアリティに欠けるものではあるだろう。また、警察組織に対する事実誤認など、気になる点は多い。ただ、フィクションとしての結構性は十分に保たれていると考える。それらを瑕疵とするか否かは意見が別れるところだろう。いずれにしろ、接戦であった。受賞を喜びたい。
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月村了衛[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 今回候補作に共通して感じられたのは、「驚きがない」ということでした。伝統ある江戸川乱歩賞ですので〈ミステリとしての驚き〉ならベストですが、そうでなくても〈小説としての驚き〉が備わっていれば、どの作品ももっと評価が上がっていたことでしょう。応募者はいずれもあまり小説を読んでいないのではないか、とさえ思いました。小説を志す者は、もっと小説を愛し、古今東西の名作に触れるべきではないかと考えるものです。
『エスカレーションラダー』は、今日的な要素を詰め込んでいる点は結構なのですが、いずれも消化不良に終わっていて全体の印象を悪くしています。主人公の人物像のブレや描写不足を指摘する声も相次ぎ、評価を得られませんでした。視点が定まらず、読みにくい文章のスタイルも問題です。
『インディゴ・ラッシュ』は、ビンテージデニムという題材の面白さは全選考委員の認めるところでありました。しかしマクガフィンを巡る争奪戦という枠組みの物語なら、既存の作品にはない独自性が必要です。それが見当たらなかったのは残念でした。活劇の連続はよいのですがメリハリがないと単調になってしまいます。日系人の死体との関係に「驚き」のアイデアが一つあれば大逆転もあり得たかも知れませんが、枠を破ることなく終わってしまいました。
『ブルー オン ブラック』は情報の出し方に難があります。梗概の最初の三行に書かれている設定が、どこまで読んでも出てこないというのは問題でしょう。日下部の人物像には作中での使われ方も含めて好感を持ちましたが、全体的に人物描写が不足しています。そしてなにより、最後に判明するネタが使い古されたパターン中のパターンであること。その点に関して指摘しない選考委員は皆無であり、ここもやはり「驚き」が欲しいポイントでした。
 受賞作となりました『わたしが消える』は、昨年度も最終候補に残った方の作品で、前作同様、最も安定した読み心地を抱きました。サスペンスの醸成に関しては前作よりも進歩しているとさえ感じました。しかし後半、特にクライマックスは不自然な状況下での説明台詞合戦となっていて失望を覚えました。これはエンタテインメントを書く者としては最も避けたいパターンです。正直に記しますと、主にここでの減点により私は前作の方が総合点では上だったのではないかと個人的に思っています。しかし最終的に本作で受賞となったことは、落選にめげず連続して応募した作者の努力の賜物であり、勝利です。そのことに間違いはありません。この上は、よい作品を書き続けることによって自らつかんだ運を何倍にも膨らませて下さい。
 佐野さん、おめでとうございます。
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貫井徳郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 正直に言えば、受賞作なしでいいと思っていました。ですが、受賞作は出すべきだとの意見にも一理あると思ったので、反対はしませんでした。
 まず、候補作すべてに言えることですが、タイトルに魅力がありません。英語をそのままカタカナ表記するのは、芸がないのでやめましょう。以下、各作品について述べます。
『インディゴ・ラッシュ』はどれかひとつ選ぶならこれ、と思っていた作品でした。ビンテージデニムのミステリーは、世界初ではないかと思ったからです。ただし、ビンテージデニムの面白さがまるで伝わってこないのが致命的でした。作者ご自身は大好きなのでしょうが、みんなが好きなわけではないのですから、もっと「こんなに面白い」と書き込まなければなりません。
『ブルー オン ブラック』は一番達者でした。このレベルの作品なら、世に出ているでしょう。ですが、新味が何ひとつないので、世に出ても埋もれるだけです。少女失踪の理由が父親の性的虐待とは、意外性皆無でしかも嫌悪感を誘います。読者は何を喜ぶのか、突き詰めて考えてみるべきです。
『エスカレーションラダー』は期待しながら読みました。ポリティカルサスペンスは乱歩賞では珍しいからです。しかし、既存の人物や組織を思い起こさせる造形は駄目です。やるなら、一から架空の政界を作り上げないと。作者にそこまでの力はありませんでした。
『わたしが消える』は地に足がついた作品でした。中核の謎が一番面白かったのも、これです。ですが、難点が多々あります。
【以下ネタバレ】
 まず、作者は警察の仕組みを勘違いしています。警察庁は単なる中央省庁で、FBIのような広域捜査機関ではありません。まして、警察庁と警視庁の面子争いなどありません。
 殺人が最後の手段ではなく、ファーストチョイスになっているのもおかしいと思いました。日本を動かすほどの組織なら、簡単に殺人など犯さないはずです。黒幕自身が終盤で、白を切れば済むと言っているのだからなおさらおかしいです。
 真相がただの陰謀論に過ぎないのも、白けました。ここまで大風呂敷を広げるなら、読み手を納得させるだけの説得力を持たせて欲しいですが、それはありませんでした。
 実在する団体を連想させる組織が黒幕だったという真相も、書き手の姿勢としてよくありません。
 これらの指摘は単行本化の際に修正されているかもしれません。大手術になってしまいますが。
 厳しいことを書きましたが、必ずや作者のプラスになると信じています。世に出たからには、大成されることを願っています。一緒にがんばりましょう。
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立会理事

選考委員

予選委員

候補作

[ 候補 ]第66回 江戸川乱歩賞    
『ブルー オン ブラック』 井上雷雨
[ 候補 ]第66回 江戸川乱歩賞    
『エスカレーションラダー』 小塚原旬
[ 候補 ]第66回 江戸川乱歩賞    
『インディゴ・ラッシュ』 桃ノ雑派