翻訳家の大切な一冊

図書室から文庫へ、推理小説へ

三角和代

 本にまつわる思い出といえばまず、小学校の図書室だ。
 スマブラやポケモンが共通言語になる世代が生まれるなんて予想もできなかった頃で、放課後は身体を張った遊び? と言えばいいいのか、足が速くて跳躍力がワンダフルじゃないと楽しめないものが多く、自分には向いていなかった。三年生ぐらいだっただろうか、学校の方針として週に一回は図書室で本を借りようという取り組みが始まり、読書が好きだと気づいた。これだ、となった。
 テレビでいつも洋画が流れていた家庭で育った影響か、どちらかといえば海外の物語を手に取ることが多かった。日本の地方にいながらにして、アメリカで四姉妹のひとりになり、おじさまと文通し、寄宿学校で先生に正論パンチをかまし、女性新聞記者の卵になり、沼地で収集にはげみ、赤毛の少女になってカナダの美しい島で暮らし、インドからイギリスに渡って波瀾万丈となり(学院と花園の二パターン)、男の子になって学校でいたずらばかりして、フランスでは響きの美しいニックネームで呼ばれ、ノルウェーでは学費を稼ぐために授業中に編み物をして、チェコでグライダーを飛ばした。貸し出し冊数制限がうらめしかったあの図書室のお気に入りの棚のたたずまいは、今でも記憶にある。そしてたしか卒業間近に、近くのホームズの棚を読みあさるフェーズを経て、鶴書房のジュブナイルのミステリとSFの棚にはまった。とくにアガサ・クリスティーという人の作品が気に入って、この作家の本をもっと読んでみたくなった。
 中学生になると、お小遣いでなんとか買える文庫をちょっとずつ手に入れるようになった。書店でタイトルが気になり、目次をめくるとアガサがいたので購入したのが、『毒薬ミステリ傑作選』(R・ボンド編/創元推理文庫)だ。思わず、うわ、と声が出たが、一九七七年刊行で定価が三百二十円なり。本格から文学畑の人たちの作品まで、さまざまな形の十二のミステリ短編が紹介されている。
 セイヤーズ「疑惑」やクリスチィ(本書の表記ママ)「事故」にはなんて面白い話を書くんだろうと驚嘆したし、『毒入りチョコレート事件』の元ネタであるバークリー「偶然の審判」は子供でも推理の展開が楽しかったし、ホーソーン「ラパチーニの娘」は幻想的な雰囲気に力を感じた。なかでもミリアム・アレン・デフォード「夾竹桃」の静かな語りにぞくりは、強烈な印象を受けた。ここからポワロ、ウィムジー卿、ブラウン神父、ほうほう、フランシス・アイルズというのはバークリーの別名義なのかと進み、さらにクイーン、カー、クロフツ、さらにはハードボイルドへと関心は広がっていくことになる。
 いまにして思えば、このジャンルを読みつづける方向へと、ぐっと舵を切ることになったわたしにとっての大切な一冊だ。繰り返し手にしてだいぶ傷んだので、別バージョンの表紙のも買ってどこかにあるはずだ。運良くオリジナルがすぐ取りだせたことでもあるし、ひさしぶりにゆっくり読みなおしてみようか。

★自己紹介に代わる訳著3作
『スリー・カード・マーダー』(J・L・ブラックハースト/創元推理文庫)
『幽霊屋敷』(ジョン・ディクスン・カー/創元推理文庫)
『名探偵と海の悪魔』(スチュアート・タートン/文藝春秋)