1986年 第32回 江戸川乱歩賞
受賞の言葉
応募原稿を書いていると、地の底に落ち込むような不安にとりつかれることがあります。
私には才能のかけらもない、一生こうやって紙の無駄遣いを続け、誰にも知られないまま朽ち果てるに違いない・・・・・・と。
すると、他人も自分もひたすら呪わしく、第三次世界大戦でもおきて地球がほろびてしまえばいい、とか、あり金残らず持って世界旅行したあと、飛行機事故であっさり死にたい、とか、はた迷惑なことを本気で願い始めます。
言いかえれば、推理作家になれないのなら私の人生などないに等しい、とまで思いつめていたということです。
受賞した現在は、当然キリスト顔負けの平和主義者、博愛主義者にかわりました。
全人類にとってたいへんよろこばしいことであった、と、ひとり頷いている次第です。
ほんとうに、ありがとうございました。
- 作家略歴
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京都府出身 神奈川県立新城高校卒
コピーライター、児童読物作家、脚本家などを経て第三二回江戸川乱歩賞で推理作家としてデビュー。受賞作は「花園の迷宮」趣味は映画、特技はありません。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度乱歩賞は、一月末日の締切りまでに応募総数三二〇篇が集まり、予選委員(及川雅、関口苑生、千代有三、原田裕、松原智恵、結城信孝の六氏)により最終的に下記の候補作五篇が選出された。
<候補作>
軍艦旗北へ 玉塚久純
鳩は死んだ 池上敏也
花園の迷宮 山崎洋子
大河の殺意 高橋幸春
ブラック・バード 石井敏弘
この五篇を六月二十六日(木)福田家「扇の間」において、選考委員・赤川次郎、石川喬司、河野典生、中島河太郎の四氏(五十音順)の出席のもとに、慎重なる審議の結果、山崎洋子氏の「花園の迷宮」が第三十二回江戸川乱歩賞受賞作に決定。
なお、伴野朗氏は、都合により選考委員を辞任された。閉じる
選評
- 赤川次郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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冒頭から、いくらかの手応えを覚えながら、それでも半ばこわごわ読み進んだ「花園の迷宮」だったが、三十枚ほど行って、遊郭へ売られて来た二人の少女の会話辺りから、もう選考委員の義務感でなく、一読者として一気に終りまで読み切ってしまった。会話、文体のテンポ、人物の出し入れ、ストーリー展開の起伏――すべてがピタリとつぼにはまって、飽かせない。
しかし、この作品から、改めて教えられるのは、主人公の少女、ふみの活々とした魅力――読み手が、この少女のけなげさや大胆さに、ニヤリとしたりハラハラしたりできる、そのことが、小説の面白さの基本だ、ということである。
これに比べると、労作とは思うが、「鳩は死んだ」にしても「大河の殺意」にしても、豊富な取材による書き込みが、単なる情報に終っている。前者は単純に時間を追って行く構成に難があり、後者は、視点の混乱、同一の説明のくり返し、といった初歩的な欠点を抱えている。
「軍艦旗北へ」は、その点、堂々たる風格を持った力作で、古風な点が長所でもあり短所でもある。ただ、ミステリーとして見た場合、主人公があまりに無為なこと、山場がなく、単調に過ぎる、といった問題が無視できない。惜しい作品である。
最も若い(二十代前半)著者の、「ブラック・バード」は、いい意味でも悪い意味でも「若さ」が出ている。オートバイにのめり込んだ著者の熱い思いは充分に伝わってきて、新鮮だ。それだけに、人物像がパターン化されすぎている工夫のなさが目立ってしまう。
五本の候補作を読んで、残念だったのは現代の、ごく身近な社会に材を取った作品が一つもなかったことである。素材の目新しさは、魅力の一つにはなっても、人間を描く目こそが大切であることに、いささかの変りもないのだから。閉じる
- 石川喬司[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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当然のことながら候補作品は最低二回は読むことにしている。最初は邪心のない一読者として。二度目はメモを片手の意地悪な採点者として。
最初も二度目も評価≪超A≫というのが最も望ましいわけだが、なかなかそういう傑作にはお目にかかれない。またたとえそういう作品があっても強力なライバルがいて運悪く受賞を逸する場合もある。僕の経験からいえば、たとえば夏樹静子の『天使が消えてゆく』と同期受賞作・森村誠一の『高層の死角』の場合がそうだった。
今回の候補作五篇のうち、最初の評価が≪A≫つまり原稿用紙をめくるのが幾分もどかしい思いで読みつづけることができたのは、『花園の迷宮』と『ブラック・バード』の二篇だった。しかし、二度目の採点で前者は≪’A≫、後者は≪B≫となった。
昭和初期の横浜の遊郭を舞台に起こる連続殺人の謎を描いた受賞作は、遊女になるために若狭の寒村から売られてきた二人の少女の生き方が興趣を誘い、いかにも女性らしいこまやかな描写のうちにさりげなく伏線が忍びこませてあり、幕切れの意外性も生きていて読ませる。時代背景に若干の錯誤が見られたが、これは手直しできるだろう。
全篇バイクの排気音とガソリンの匂い、それにめくるめくような疾走感に溢れた『ブラック・バード』は、荒削りながら魅力たっぷりの青春小説で、構成をもう一工夫すれば、ギリシャ悲劇の現代版になりえたに違いない。
他の三篇も、それぞれに詠みごたえがあった。『軍艦旗北へ』は堂々たる本格物で、二度目の採点は≪’A≫だったが、いかにも古風なので損をした。『鳩は死んだ』は製薬業界の特許問題を扱った意欲的な産業スパイ小説、『大河の殺意』はブラジルを舞台に風土感豊かに戦争の傷跡をえぐりだした異色作、いずれも捨て難い味があったが、構成その他に難点があり、次作待ちとなった。閉じる
- 河野典生[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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池上氏は前回応募作同様、今回も専門の「医薬品」にまつわる部分は、会話、文章とも臨場感がある。しかし残念なことに「頭脳明晰、判断力抜群」という探偵役の行動について、作者の想像力が大きく不足している。行動にも論理が必要であり、危険な選択には切迫した理由がなければならない。テンションとスリルはそこから生まれる。高橋氏の作も「ブラジルの風物」についてのリアルな描写は興味深いが、この語り口で通すのなら、もっと虚実すれすれの物語を構築しなければならない。逆にホラ話のパワーを生かした劇画調(この話ならそっちが近い)を狙ってもいいが、その場合はまた別の思考行動パターンを持つ探偵役で読者を乗せる必要があるのだ。両氏とも(国産品は多すぎて判断に迷うだろうから)なるべく定評ある翻訳物を数多く読みスパイ並びに政治(ポリティカル)ミステリーの手法を(プロット作法や、突然脇役の心理に入りこんだりしない視点の問題の基本も含めて)勉強し直してみてくれないだろうか。既にそうした結果だというなら才能の質の問題である。
石井氏の作はギリシャ悲劇の現代版とでもいうべき自己完結的小説世界だが、やはり専門分野らしい「バイク」の既成作家とは別味のメカニックで細密な描写と、人間描写との出来映えの落差が激しい。忘れられがちの傾向があるが、乱歩賞の許容範囲は「広い意味の推理小説」であるので、メカとアクションに徹してもいいのだ。ちゃちなパズルやトリックから人間を解き放して、再挑戦を期待したい。迫力で勝てばいいのではないか。
さて小生の推した二作――受賞した山崎氏の作は、いわば小味なミステリーだが、端役にいたるまでくっきりした人物の輪郭、汚辱を包み込む暖かいユーモア、童話的だが安定した語り口、それらが問題なくすばらしい。
玉塚氏は前回も歴史物大作だったが、今回は氏独特の剛毅な文体にさらに磨きがかかっており、特に山崎氏とは別の悠揚迫らざる高度のユーモア感覚には、敬意を覚えるとともに充分に楽しませていただいた。やや無器用な推理部分を修正の上、賞とは別に、この風格ある作をぜひ出版していただければと思う。閉じる
- 中島河太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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本年度の候補作五篇はそれぞれ詠みごたえがあった。
「軍艦旗北へ」は日露戦争に際し、バルチック艦隊が日本近海を目ざして航行中、艦内で起こった事件を扱っている。艦内に終始した会話のやりとりは、重厚な筆致だが、サスペンスに乏しい。構成の起伏に配慮の足りなかった点が惜しまれる。
「鳩は死んだ」は製薬特許をめぐる産業スパイ物である。日本とドイツを舞台にして、プライヤー・アートの探索と新薬売り込みを試みながら、情報提供者の正体を追及する展開は、一応纏まって描写も無難だが、暗号などにもうひと工夫欲しかった。
「花園の迷宮」は文章にうるおいがない。昭和七年に視点をあてた横浜の遊郭を背景にした、一風変わった作である。満州独立党など勇みすぎた感じだが、なによりもヒロインのいきいきとした言動が、遊里の陰惨さを救っている。
「大河の殺意」は敗戦後のブラジルで起こった、日本人社会の勝ち組・負け組の抗争が土台になっている。くり返し聞かされた話だけに、新鮮味がなかった上に、復讐譚に仕立てたことが不満だった。ブラジル風土の描写など印象に残った。
「ブラック・バード」はバイクのおもしろみを知らないものにも、難なく読ませる筆力はたのもしい。マシンの魅力を存分に発揮したこの作品は、それぞれの人物にも好感がもてた。劇画風といえぬこともないが、粗さと甘さがたのしかった。
多少の不満があったが、討議の結果、三氏に同調して、「花園の迷宮」を推すことにした。閉じる
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第32回 江戸川乱歩賞
- 『軍艦旗北へ』 玉塚久純
- [ 候補 ]第32回 江戸川乱歩賞
- 『鳩は死んだ』 池上敏也
- [ 候補 ]第32回 江戸川乱歩賞
- 『大河の殺意』 高橋幸春
- [ 候補 ]第32回 江戸川乱歩賞
- 『ブラック・バード』 石井敏弘