1977年 第30回 日本推理作家協会賞 短編部門
- 作家略歴
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1916~1988
中国・大連生れ。大連商業卒。
一九六二年、オール讀物推理小説新人賞で「脅迫旅行」が次席となり、六六年に「羊歯行」で第一回双葉推理賞を受賞。「カーラリー殺人事件」「唐三彩の謎」「南海幻想」などの長編のほか、植物、美術、陶芸の造詣を生かした短編があり、七七年、「視線」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。人間味溢れる牟田刑事官のシリーズが好評だった。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度、第三十回日本推理作家協会賞選考委員会は、三月二十三日(水)午後四時より"山水楼"において開かれた。選考委員の佐野洋、島田一男、土屋隆夫、戸板康二各氏の出席により、左記の候補作十一篇について慎重なる審議が行なわれた。委員の南条範夫氏は、健康上の都合により、書面にて選評を提出された。
3時間に及ぶ審議の結果、出席した全委員一致で長篇賞は該当作品なし。短篇賞は石沢英太郎氏の「視線」、評論その他の部門は、山村正夫氏の「わが懐旧的探偵作家論」を受賞作に決定した。閉じる
選評
- 佐野洋[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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〔長篇部門〕読んでいて面白かったのは、五木寛之氏「戒厳令の夜」であった。着想の卓抜さ、構想の雄大さなど、これまでの日本にはない作品と言ってよいだろう。しかし、果して推理小説と呼べるかどうか。そう首をかしげながら選考会に臨んだ。他の選考委員諸氏も、私と同様な疑問を持っていたらしい。結局、作者が、推理小説を書くつもりで書いたのではない以上、これを推理小説評価の基準に従って評価するのは、作者に対しても失礼であろう――ということになり、最初に選考の対象からはずしたのであった。
泡坂妻夫氏『十一枚のとらんぷ』は、作中にショート・ショートが挟まれ(作品全体よりも、この部分が私には面白かった)、そこに事件解決のキイが潜んでいるところなど、アイデアは優れているが、この事件を小説化するのに、これだけの枚数が必要であろうか。また、死体の周囲に、いろいろなものを並べた犯人の論理が、私には理解できなかった。現代のマスコミが『現場に残された魔術の道具は悪魔の儀式か』などという、大時代の報道をするはずがない。作者は、古い形式の、いわゆる『探偵小説』を狙ったのであろうが、その小説において、最も現代的であるマスコミの介入を前提とした構想を立てた点に、作者の計算違いがあったように思われてならない。
西村京太郎氏「消えた乗組員」。この作者のアイデア、筆力には毎度感心させられるが、重要な部分に致命的な傷があるのは、なぜなのだろう。この作品でも、海難審判に関する用語、審判手続きがでたらめである。
藤本泉氏『ガラスの迷路』。前半部の謎は非常に面白い。しかし、それが作品の真中あたりで、天下り的に解けてしまうのだから、推理小説として物足りないと言わざるを得ない。あるいは、この作品も、作者は推理小説のつもりではなかったのではあるまいか。
〔短篇部門〕『視線』の石沢英太郎氏は、短篇部門の協会賞が、もっと早くから作られていたら、恐らく、毎年候補になっていただろうし、あるいは、すでにこの賞を受賞していたかもしれない。その石沢氏の短篇としては、『視線』は必ずしも代表作とは言えないだろう。ことに、実作家から見た場合、"偶然"の使い方が気になるところである。だが、同時に、実作家であるが故に、四十枚足らずの中に、一応の解釈を盛り込むためには、それを使わざるを得ない苦しさも、私にはよくわかった。私は、この作品には、多少の不満を感じながらも、短篇推理小説における、石沢氏の業績を評価して、同氏への賞の贈呈に賛成した。
長篇と短篇との違いは、単に枚数だけの差ではないはずである。今度の五候補作を見た場合、真に短篇推理小説らしい小説は、『視線』一篇だけと言っても過言ではない。その意味でも、石沢氏の受賞は意義があると言えよう。
小林久三氏『海軍某重大事件』は、シーメンス事件に、新しい解釈を加えようとしたものだが、その解釈が、ロッキード事件で現われた現象を出ていない点、単なる思いつきにとどまっている。また仮に、シーメンス事件を借りて、ロッキード事件に別の光りをあてるつもりだったというのなら、もう少し違った書き方があったはずだ。これだけでは、例えば、三年先にこの作品を読んだ読者には、作者の意図が読みとれまい。
他の三篇については、敢えて触れないでおく。
〔評論その他の部門〕『わが懐旧的探偵作家論』はこの著者以外には書けないエッセイである。論というには、悪口がないのがさびしいが、昨年の権田萬冶氏『探偵作家論』で取り上げられた作家たちの、人間味を知るには、絶好の読み物であろう。閉じる
- 島田一男[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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昨年度にひき続いて本年度も長篇賞に恵まれなかったことは大変残念である。数多くの長篇推理小説が出版されていながら、二年連続長篇賞の受賞作品が出なかったことは作家はもとより、出版社側も一考を要するのではあるまいか。本が出ればよい、出せばよいというものではない筈である。
出版社側の態度については、わたしはこれ以上意見を述べる立場ではない。問題は今回の候補作だが、「戒厳令の夜」は選考外とされたから触れない。あとの三篇、「11枚のとらんぷ」「消えた乗組員」「ガラスの迷路」は、偶然にも同じ思考から出発し、同じ失敗をおかしている。「11枚のとらんぷ」は奇術、「消えた乗組員」は船、「ガラスの迷路」はプラハのガラス工芸。三人の作家は、それぞれ特異な題材に飛びつき、結局、推理小説の背景として題材を生かすことを忘れ、題材の解説に推理小説的展開をしている。
なぜ、この特異な題材をもっと温めなかったのであろう。一年でも二年でも、練って練って、奇術を、船を、ガラス工芸やプラハの風景を、推理小説のツマにしてしまえば、遥かに厚みのある作品になったことであろう。特に、二年連続候補になった西村京太郎氏は全く惜しいと思うが、昨年の「消えたタンカー」同様のミスを繰返している。"タンカー"ではタンカーそのものを知らず、出入国管理法を知らずに書かれていたが、"乗組員"では警察の捜査組織や管轄が無視され、佐野洋委員の話では海事審判制度にあやまりがあるとのことである。今後は、根の深い取材を望みたい。
短篇賞は、殆んど無競争で石沢英太郎氏の「視線」と決定した。非常にいい難いことではあるが、「視線」がズバ抜けた傑作であったというよりは、本年は短篇も不作で、候補五作品ですら小粒。中で「視線」がいかにも短篇推理小説らしい小説であり、他の作品の中には。私見であるが、なぜこんな小説が予選を通ったのであろうと疑うようなものも混っていた。
長篇を読んでいたときにも感じたことであるが、短篇の候補作品を読んで一層強く感じたのは、何か推理小説をカン違いしているのではなかろうか・・・ということである。推理雑誌に載ったから推理小説、目次に推理小説とうたわれたから推理小説だとは考えず、推理小説の原点に立って、ジックリと考なおして貰いたい。
評論部門賞の山村正夫氏著「わが懐旧的探偵作家論」を、わたしは評論集とは考えない。しかし、"評論並びにその他の部門賞"ということであったので賛成した。なぜなれば、作家の個人的交遊の広さから、山村氏でなければ、こういうものは書けないと感じたからである。閉じる
- 土屋隆夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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協会賞は昨年度に引きつづいて、今年も長篇の授賞作なし、という結果に終った。残念なことだが、選考委員としては誠実に各候補作品を拝見し、時間をかけて検討したつもりである。短い選評の中で、その内容を詳記することはできないし、犯人の名前をあげて、そのトリックや犯行動機の是非を論ずることもできない。推理作品について、意見を述べることは、まことにむずかしい。
「11枚のとらんぷ」(泡坂妻夫氏)は、ゲーム探偵小説の持つ面白さと、それに伴なう不自然さを、はっきりと見せつけられたような気がした。ゲーム性に徹した作品を、私は否定するつもりはないが、それならば、もっと緻密な計算と構成が要求される筈である。
「消えた乗組員」(西村京太郎氏)は、例によって、その大胆な着想には敬服したが、作品としては昨年の「消えたタンカー」のほうがよかった。法律的なミスばかりでなく、犯人の心理や行動に矛盾や疑義が多すぎる。青酸をコーヒーに入れて、八人を同時に毒殺するなどできるわけもないし、無差別な大量殺人も小説技術としては安易にすぎよう。
「ガラスの迷路」(藤本泉氏)は、丹念に書きこまれた作品だが、善玉と悪玉の対比が、あまりに類型的であった。ガラス工芸やプラハの風景が克明に描かれているのには感心したが、それが推理小説としての興味や魅力につながっていないのが惜しまれる。
短篇「曲った部屋」(泡坂妻夫氏)は、やはりゲーム性に徹した作品だが、これにも長篇と同じような感想を持った。深夜、マンションの狭いドアから、二つの部屋のダブルベッドや洋服箪笥、冷蔵庫、テレビ、ステレオ、洗濯機その他の家具類を運び出し、階下の住人に気ずかれないように入れかえるなど、プロの運送屋もびっくりするような男女が登場する。しかもこの一号棟は「南北に曲っていた」(七八頁上段)そうだが、そういう奇妙な曲り方をした建物も存在するのだろうか。
「汽笛が響く」(南部樹未子氏)は、推理小説というよりも、普通の文芸作品として、私は読後の余韻を楽しんだ。玩具の汽車と遊ぶ老女の悲しさを、作者は見事に描き出している。ただ、推理小説としては、たしかな骨格がほしかった。
「海軍某重大事件」(小林久三氏)は、ロッキード事件の大正版だが、犯人の言動が納得できない。事故か自殺で片付きそうな運転手の死を「とにかく宮村の死は妙ですよ」とか「どうも裏があるような気がする」などと、捜査官に漏らす犯人があるだろうか。この心理の不自然さに対する作者の説明が、私には納得できなかった。
「瀬戸の夕凪」(山村正夫氏)は、いささか古風な人情噺である。ほかにすぐれた短篇をお書きになっている山村さんとしては、不運な候補作品であった。
結局、石沢英太郎氏の「視線」が、授賞作品に決定したわけだが、これには私も賛成であった。この作品は、特に結末の部分がうまい。サラッとした仕上がりで、作者の包丁の冴えを感じさせる、好個の短篇であった。
評論その他の部門では、山村正夫氏の「わが懐旧的探偵作家論」の授賞が、全員一致で決定した。これ一点であったからではない。これは正攻法の探偵作家論ではないが、推理文壇の側面史としても、将来貴重な資料になると思う。そして、これこそ、青春時代から今日まで、推理小説と推理文壇の中で生きつづけて来た山村さんでなければ書けないようなものであったといえよう。
これで、選考委員としての私の任期は終った。推理小説というものは、一読者として気楽に読むのが一番である。どうやらその楽しみが、これからは味わえそうな気がする。閉じる
- 戸板康二[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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石沢英太郎氏の「視線」は、たくみに構成された好短篇である。
たまたま刑事が地方都市の神社で、いま挙式したばかりの新郎新婦に行き合うと、男のほうが、半年前に強盗にはいられた銀行で、ホールドアップを命ぜられた行員である。
刑事は、この男が隣りの席にいた同性行員に視線を走らせたということを記憶している。そして、チラリと見られた行員は、非常ベルを押そうとしていて、強盗に射殺されたのである。
刑事の心に何か、ひっかかるものがあるというこの惨劇を、記録として再現し、なぜ一人の行員が強盗の目の前で、同僚に視線を走らせたかを、もう一度考え直してみる刑事の探究心と、そのむくいとして何を得たかが、述べられている。
「何か、ひっかかるものがある」という場合の処置を、刑事とともに、作者が追い、読者をその追跡の道連れにする。
よくまとまった小説で、短篇の楽しさを、味わせてもらった。
山村正夫氏の「わが懐旧的探偵作家論」は、多くの作家たちと交遊の機会を持った著者の追憶を主とした人間観察の手記で、こういう本は、誰にでも、書けるものではない。
ぼくの知らない作家があって、その場合は、多くのことを新しく教えられるわけだが、やはり知っている作家のほうが、おもしろい。これは、当然である。
江戸川乱歩氏にも、ぼう大な交遊記があるが、それぞれの時代に、作家についてくわしく書いた本が、もっと出てもいいと、いつも思っている。
この本は、ある意味で、貴重な史料ともいえるであろう。閉じる
- 南条範夫選考経過を見る
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まず、病気入院中の為、充分に選評出来ないことを、お詫びしたい。
長篇賞、該当作品なしとのことだが、「11枚のとらんぷ」(泡坂妻夫氏)は、従来のミステリー物と全く違った味を持ち、舞台奇術の内幕が実に面白く書けていて、終始爽やかな感じで流了した。最後のトリックは、特に新味はなく、うまいとは言えないが、楽しく極めて異色な作品として、候補作の中では最も面白かったと思う。
「ガラスの迷路」(藤本泉氏)、非常な力作でプラハ街の描写がよく、犯人追求の過程も緊迫感があった。が、主人公の性格の急変ぶり(犯人殺害を決意する前と後の)が、少々、気になった。
「消えた乗組員」(西村京太郎氏)、着想は面白いと思うが、大量殺人の動機が余りにも脆弱過ぎるのではないだろうか。
結局、該当作品なしというのは妥当だろう。
短篇賞の「視線」(石沢英太郎氏)は、思いつきが面白く、候補作の中では最も、まとまっていたと思う。
「汽笛が響く」(南部樹未子氏)は、小説としての出来具合は最も良いと思ったが、推理小説というには推理的要素が欠如している。文学性のある作品だと思う。
他の短篇賞の候補作も含め、各々に違った特色があったが、特に是非これを推したいというのはなかった。
評論部門「わが懐旧的探偵作家論」(山村正夫氏)については、私の知らない多くの作家のことを教えて貰い、大いに為になった。その意味でも山村氏の受賞は、私にはもとより異論はない。閉じる