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1976年 第29回 日本推理作家協会賞 長編部門

1976年 第29回 日本推理作家協会賞
長編部門

該当作品無し

選考

以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。

選評

佐野洋[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 日本推理作家協会賞は、ことしから、(イ)長編、(ロ)短編、(ハ)評論その他の三部門にわかれて、贈呈されることになった。選考の対象は前年度に発表された諸作品(既受賞者の作品は除外)であり、協会員、非協会員の別は問わない。
 以下、各部門別に選考の所感を述べる。(イ)長編部門。ことしは候補作が三編で非常にさびしかった(都筑道夫氏「退職刑事」は予選委でこの部門にノミネートされたが、のち理事会で、短編部門に編入された。)
 三編中では西村京太郎氏「消えたタンカー」に感心した。犯罪の規模が雄大であり、サスペンス小説として新しい領域を拓いたと言えると思った。だが、他の委員から、重大な嘘があるという指摘や、なぜ連続殺人の必要があったのかと疑問が投げかけられた。その嘘というのは、たしかに作品の成否にも関する重大なものであり、また、よく考えれば、連続殺人の必要は全くなかった。むしろ、連続殺人がなければ、この犯罪は、或いは発覚しなかったのかもしれない。
 仁木悦子「青白い季節」は、失礼ながら私には退屈だった。(もっとも、私はせっかちなせいか、クリスティ作品の多くにも、同じような退屈さを感じることが、ままあるのだが・・・)。第一に犯罪が地味で魅力的でないこと、登場人物にしても、実在感が至って稀薄なことなどが、その理由のように思われる。結末をうまくまとめ上げ、矛盾がないのはさすがだが、いささか、苦しまぎれという感じがする。仁木氏も、この作品には、決して満足していないのではあるまいか。
 山村美紗氏「花の棺」。この作者の、トリックに対する情熱には敬意を表するが、小説全体から、トリック部分だけが浮上がっていることが、最大の欠陥であろう。トリックが使われる必然性が、読者にはわからない。探偵役の副大統領令嬢について感心なさった委員が多かったが、私はむしろ逆であった。こんなお転婆娘が、頭脳明晰なはずはない――という、私の偏見かもしれないが、読んでいて、彼女のイメージが浮かんで来なかったのだ。
 強く推すつもりだった西村氏の作品に、前述のような欠点があったため、残念ながら、今回は、賞を贈呈すべき作品なし、という意見を受け入れざるを得なかった。
(ロ)短編部門。短編には、本来、長編と全く違う技法、味があるべきだ、と私は思っている。その意味で、私は小林久三氏「赤い落差」に対しては、最初から点が辛かった。優れた趣向が、いくつか散りばめられていることは認めるが、これは短編と言えるか、という疑問が残った。単に分量によって、長編、短編がわかれるのではない
と思う。
 草野唯雄氏「トルストイ爺さん」は、単に探偵役としてトルストイが登場しただけの作品ではないだろうか。作品の世界を、そこに選んだ着想自体は、評価できるが、ただそれだけに終り、何のためにトルストイを探偵にしたのか、わからない。発酵不足ということか。
 都筑道夫氏「退職刑事」。純粋に論理のみによって解決する推理小説、という氏の志向はわからないでもない。だが、ここにあるのは、一人の人物が展開する論理のアクロバットだけであり、論理と論理がぶつかり合い、その結果新しい論理が生まれるという、論理生産の過程が欠如している。論理のみでドラマを作るためには、その火花が必要なのではあるまいか。
 戸板康二氏「グリーン車の子供」。わずかな枚数の中に、一応のドラマ、伏線、意外な結末を過不足なく配置し、見事な短編に仕上げている。これこそ短編小説ということができる。犯罪さえ書けば、推理小説になると、誤解しているような作品が多い昨今、このような短編に賞を贈呈できたことは、短編部門を独立させた意味があったと、大変喜ばしい。
(ハ)評論その他の部門。この部門に関しては、日本の推理小説界にとっての意味、ということを選考の基準にしたいと思った。権田氏の「日本探偵作家論」は、従来、試みる人のいなかった本格的な作家論であり、この部門の第一回目の賞を贈呈するのにふさわしい労作だと思う。
 他の三氏の研究、エッセイ等は、それぞれ独特の味を持つものであったが、すべて、あまりにも特殊すぎる嫌いがあった。
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島田一男[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 本年から日本推理作家協会賞に変革があり、長篇賞、短篇賞、特別賞を同時に決定することになった。予選委員会は各賞別々だが、本選の決定委員は三賞を選ばなければならない。やってみて、研究しなくてはならない点がいろいろとあったが、ともあれ、わたしはわたしなりに全力を尽した積りである。
 まず長篇賞だが、本年は該当作品ナシとなったことは大変淋しい。西村氏の"消えたタンカー"、仁木さんの"青じろい季節"、山村さんの"花の棺"、それぞれ一ト味違ったものを持っているが、忌憚なくいわせて貰へば、"消えたタンカー"は劇画のストーリー的な面白さ、"青じろい季節"はホームドラマ、ミステリー版といった味、"花の棺"はアメリカ製の私立探偵ドラマといった感じが強い。
 しかしわたしは、劇画を、ミステリー・ホームドラマを、アメリカ製の私立探偵ドラマをいけないというのでもなく、軽蔑するものでもない。結構"子連れ狼"を楽しみ、"私立探偵ロックフォード"を喜んで見ている。ただ協会賞の受賞作品としては、"消えたタンカー"にはタンカー、海員制度、出入国管理などに間違いが多く、"青じろい季節"は雑誌連載のせいか冗漫に過ぎ、"花の棺"はトリックにこだわり過ぎて無理が目立ち、これだという一作がなかった。仮にもし誰かから、――この三篇の中から強く印象に残ったものは・・・とたずねられた場合、"花の棺"の探偵役が、華道勉強に来日したアメリカ副大統領の令嬢と、そのエスコート役の外務大臣の甥というユニークな設定だと答へるであろう。
 短篇賞は、殆ど全員一致で戸板康二氏の"グリーン車の子供"と決定した。一部委員の中から、登場人物が少く、歌舞伎をよく知っているものには、すぐ話の筋が割れてしまうとの意見も出たが、わたしは、芝居はよく見るほうだがこの作品には敬服した。その理由の第一は、これが短篇小説だという見本のような作品であること。第二は、殺人がなくても推理小説は立派に成り立つのだと教へているような作品であることの二点である。
 そのしとしとした語り口。無理のない温やかな会話。そして"私"なる人物の視点の確かさ。わたしは何のためらいもなく"グリーン車の子供"に点を入れた。戸板さんとしては、――何ンだいまさら・・・と思われるかもしれない。"車引き殺人事件"を始め、これまでに、老俳優雅楽探偵の優れた推理小説は幾つか発表されている。しかし、協会賞は年間作品賞である。了承していただきたい。
 都築氏は大変不運であったというよりいいようがない。始め短篇集"退職刑事"が長篇賞候補となり、後に短篇賞候補に切り換えられた。そのため年間作品の建て前から、"壜づめの密室"が選考の対象になった。これは都築氏としては不本意であったに違いない。小林氏の"赤い落差"は本来長篇のテーマであると思うし、殺人のトリックには前例がある。草野氏の"トルストイ爺さん"は、この物語にトルストイが登場しなければならない必然性にまず疑問を感じた。更に草野氏のトリックに対する熱意は買うが、長篇候補の山村さんの場合と同様、あまりにもトリックが先行しては物語が不自然になるのではあるまいか。
 特別賞の権田万冶氏の"日本探偵作家論"と決まった。わたしは権田氏の業績を立派なものとは思うが、日本探偵作家論としてはその人選に納得のゆかないものがある。あとがきによると、今後も機会があれば作家論を続けると書いてある。わたしはそれを待って考慮した方がよいと考えたが、多数決の法則に従って権田氏の授賞に賛成した。
 最初に書いたいろいろの問題の一ツがこの特別賞である。エッセーや評論を同時に論じてよいか?出版物と映画、演劇、テレビを同じ選考のテーブルに乗せてよいか?特別賞は年間賞ではないのか?また、特別賞ではないが、短篇賞の扱いをどうすべきか?まだまだ問題は幾つかあるが、これ等の点は来年の選考期までに、なんとか結論を出しておきたいものである。
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土屋隆夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 手もとに送られてきた候補作は、長編が三冊、短編集一冊、評論エッセイ集四冊、そのほかに短編が三作もある。そのページ数は、合計すると二一五四頁に及ぶ。これだけ大部の作品を、ごく短期間に精読し、ときには二回、三回と読みなおし、メモをとり、優劣を検討し、授賞作品を決定しなければならない。まことに荷の重い仕事である。机上に積み上げた書物を眺めて、私は溜息をついたものだ。協会賞が、本年から三つの部門に分れた結果だが、選考の方法についても、今後は改善する必要があると思う。
 尤も、こういう気持になったのは、私だけではなかったようだ。当日、選考を開始する前に、ある委員から「きまるまでには、三日ぐらいかかるんじゃないか」という言葉がとび出したのも、半ばは冗談、半ばは本音でもあった。授賞作は、すでに発表された通りだが、ここでは、個々の作品について、私見を詳記する紙数がない。
 小説の候補作は、西村氏の作品をのぞけば、いずれも謎ときを前面に押し出した、いわゆる本格ものであった。しかし、読後の印象は、必ずしも鮮烈ではなく、そのトリックやプロットにも、格別の驚きや感動はなかった。味わったのは、淡い失望感であった。
 その中で、私が注目したのは、西村氏の「消えたタンカー」と、戸板氏の「グリーン車の子供」の長短二編である。
 西村氏のものは、とにかく面白いのである。スケールが雄大で、着想も非凡であった。快調なテレビのアクションドラマを見ているように、私は一気に読了した。ただ、作中の殺人の動機に説得力がなく、法律的な疑義やミスが指摘されて、授賞は見送りになったのだが、いかにも惜しまれる作品であった。
 戸板氏の作品は、そのしっとりとした語り口のうまさに心を惹かれた。候補作の中では、最も短かい作品だが、過不足のないストーリイがピタリとおさまって、短編の見本のような仕上がりである。ただ、登場人物が少なく、伏線があまりにフェア―で親切すぎるために、全五章のうち、はじめの二章ぐらいで、結末を予見する読者がいるかもしれない。戸板氏の過去の作品にくらべて、これが最高とはいえないが、前年度の優秀作品ということで、全員が授賞に賛成した。
 「評論その他の部門」で、私が推したのは、権田万冶氏の「日本探偵作家論」と、加納一朗氏の「推理・SF映画史」の二編である。
 権田氏のものは、戦前作家の業績を、今日的な視野でとらえ、探偵小説の系譜を、作家論という形の中で展開している。しかも単なる探偵作家論ではなく、それが権田氏自身の文学論にまで高められている点に、私は敬服したのである。権田氏の探偵小説に対する情熱と傾倒が、過去の中に埋没した作家と作品をよみがえらせ、現代に呼吸させているのだ。この清新な探偵作家論に、協会賞が贈られたことを、私は心から祝福する。
 加納氏のものは、戦後のミステリイ、SF関係の映画を、豊富な資料を駆使して歴史的に鳥瞰したものである。単なる資料目録ではないか、という見方もあろうが、この貴重な労作と努力は、高く評価されなければなるまい。授賞に賛成の委員もあったが、多数の支持を得ることはできなかった。本来ならば、映画関係者の中から、なんらかの賞を贈るべきだ、という声もあったが、全く同感である。
 以上が、本年の授賞作品に対する感想だが、私が本当に書きたかったのは、むしろ、賞を逸した長短篇についてであった。しかし、それらの作品は、その殆どが本格ものであるために、どうしてもトリックに触れなければならない。しかも、私が授賞に賛成できなかった理由の大半が、そのトリックの不備にあるのだ。選考事情を、協会報だけではなく、一般誌にも掲載することになったので、いちばん肝腎な点について説明できないのである。ひと口にいえば、作者にだけ可能で、読者には不可能と思えるトリックが多すぎるということだ。頭の中だけで作り上げた、実現不可能なトリックや、ご都合主義の人間関係が織りなす物語に、当方としては共感できかねる。未読の方は、これらの候補作品をお読みになって、授賞に踏み切れなかった理由を、ご自分の目で確かめていただきたいと思う。
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中島河太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 本年度から選考のありかたが変更されたため、不手際な点があった。長篇、短篇、その他の三部門を同時に処理するという難題の他に、短篇集の取り扱いなど、もっと検討しておくべきことがあったのは遺憾である。
 長篇部門では西村京太郎氏の「消えたタンカー」が、おもしろさでは群を抜いてい阿多。「青じろい季節」はいかにも仁木悦子氏らしいケレン味のない作品だったが、二つの事件の結びつきに引っかかった。血の繋がりにこだわりすぎて、しかもあとになって判明する点が弱かった。
 「花の棺」は女流作家らしく、華道五流の争覇に着目している。それらの勢力争いがじゅうぶん察せられるだけに、この作品に事件はあまりに拵えものにすぎて、そぐわない。狂言廻しにアメリカ副大統領の令嬢をもってきたのは生きている。
 「消えたタンカー」はスケールの大きなサスペンス小説である。無理な個所はあったが、目をつぶっていいと思っていたのに、現行法規を無視したミスを指摘されたので、躊躇せざるを得なかった。
 五〇万頓のタンカーの沈没事件の蔭に企まれた陰謀は、冒険小説めいた夢をそそるに十分だが、現実離れの程度が問題であろう。
 都筑道夫氏の「退職刑事」は、気の毒なことをした。はじめ長篇部門の候補に挙げられていたので、それを不当として短篇部門に廻したのだが、ここでは短篇集一冊と短篇各篇を比較することの反対が多かった。
 戸板康二氏の「グリーン車の子供」は、短篇の見本のような佳作である。丹念な伏線が敷かれていて、しかも心理的な裏づけがなされてソツがない。血腥さを抜きにして、推理を堪能させてくれるし、その後味のよさにも敬服した。
「トルストイ爺さん」は、作者がよく試みる手法で、実在人物を登場させているが、こんどのは単なる思いつきにとどまった。大泉黒石がトルストイを見かけたという挿話から生まれたもので、必然性がなかった。
 小林久三氏の「赤い落差」は、中篇を圧縮した感じで重苦しい。
 今年は幸い戸板氏の作品があったが、おびたたしい数の中から、短篇一篇を選び出すのは至難のように思える。短篇の技倆を総体的に評価するために、短篇集を積極的にとりあげてもよいと思うのだが、前年度の制作を強調されると難しい。この辺は予選で一考を要したいところである。
 今年はじめて設けられたその他の部門についても、考慮すべき点がある。候補作の選出はやはり然るべき機関に委託するのが無難だと思う。
 この部門は評論、研究、エッセイ、映画演劇など種々雑多を包含するとなると、これまた比較がしにくい。評論としては権田氏の「日本探偵作家論」と、研究としては加納氏の「推理・SF映画史」を挙げた。後者は不充分な点があっても、はじめてこの方面の作品を纏めたものだが、傍系的な業績かもしれない。その点では、前者は、戦前作家を新たな視点に立って再検討した意欲的な試みであった。なおざりになりがちの戦前の成果に対して、情熱をもって対決した姿勢は颯爽としている。
 従来、小説に傾きがちであった協会賞が、この部門を設けたことは進歩であったし、その最初に本書が授賞されたことは、その甲斐があった。
 結局、二部門だけの授賞に終ったが、だからといってすぐ長篇部門が不作だったとはいえない。既受賞者は対象にしないということが、いきおい選考対象の幅を狭くしている。決して前年度の最優秀賞ではないことが銘記されなければならない。新人作家が続々現われるお国柄ならかまわないが、新人賞に接近する恐れがないでもない。
 机上の論議と実際とはくい違って、不都合なことがあったが、試行錯誤を重ねて改善する他はあるまい。とにかく、戸板、権田両氏の授賞が決定してほっとした。
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選考委員

候補作

[ 候補 ]第29回 日本推理作家協会賞 長編部門  
『青じろい季節』 仁木悦子
[ 候補 ]第29回 日本推理作家協会賞 長編部門  
『消えたタンカー』 西村京太郎(黒川俊介)
[ 候補 ]第29回 日本推理作家協会賞 長編部門  
『花の棺』 山村美紗