1984年 第37回 日本推理作家協会賞 短編部門
受賞の言葉
「三度目の正直」というが、私にとっては「六度目の正直」だった。過去、推理作家協会賞に五回ノミネートされていた。五十二年から一年を除き、毎年三月になると、ハラハラ、ドキドキしてきたわけだ。
そして、その間、三月はずっと私の憂鬱な季節であった。年男のことし、やっと六度目にして念願を果たすことができたわけである。受賞の報は、勤めている新聞社の夜勤の席で聞いた。なにか、ほっとしたような、それでいて肩に重荷を担いだような、複雑な気分だった。
協会賞は、なににもまして欲しい賞だった。一人前の推理作家として、諸先輩方に“認知”されたのだと思う。これまで書いてきた私の路線に間違いなかったことを再認識させてくれた。
大変なのは、これからだ。という気持が強い。初心忘るベからず。一作一作を、大事に書いていきたい。
- 作家略歴
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1936.7.16~2004.2.27
愛媛県松山市出身 東京外国語大学中国語科卒 朝日新聞記者(主に外報部で中国問題担当)昭和六三年上海支局長を最後に退社
第二二回江戸川乱歩賞受賞の『五十万年の死角』で文壇デビュー 『傷ついた野獣』で第三七回日本推理作家協会賞受賞 代表作『大航海』『必殺者』『始皇帝』『九頭の龍』『霧の密約』『砂の密約』『呉三国志・長江燃ゆ』など 趣味はラグビー、落語
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 山村正夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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第三十七回日本推理作家協会賞の選考は、例年通り昨年末より着手した。会員及び出版関係者のアンケートの回答結果を参考にして、まず長編部門では一九五篇、短編及び連作短編集部門では、短編六〇七篇、連作短編集二〇篇、評論その他の部門では九篇をそれぞれリスト・アップした。
これらの諸作品を協会より委嘱した部門別予選委員が選考に当たり、短編及び連作短編集部門は二月十六日、長編部門と評論その他の部門は二月二十一日に、協会書記局において予選委員会を開催し、候補作を選出した。さらに三月七日の理事会で承認を行なった後、長編三篇、短編四篇、連作短編集一篇、評論その他の部門一篇を本選考委員会に回付した。
選考委員会は三月二十七日午後五時より、新橋第一ホテル新館柏の間にて開催。阿刀田高、泡坂妻夫、中薗英助、西村京太郎、眉村卓ら五選考委員が出席(石沢英太郎委員は病気のため書面参加)。理事長の山村正夫が立会い理事を兼ねて司会し、各候補作について委員の活発な意見が交された結果、上記の授賞作が決定した次第である。選考内容については、各選考委員の選評を参照されたい。閉じる
選評
- 阿刀田高[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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推理作家協会賞は原則として、予選を通過した作品のみを対象とする賞である。著者のこれまでの実績や推理小説界への貢献度などは二義的な意味しか持たない。選考に先立ってこのことを立会い理事に確認した。
今回のように輝かしい実績を持つ諸先輩の作品を俎上に載せる選考委員の心境は、まことに複雑である。虚心に作品を読み、その中身だけを評価の対象とするよう努力したつもりである。
長編部門は少差ながら私は「ホック氏の異郷の冒険」を推した。ホームズの空白の歳月を埋めるという着想が、まずおもしろい。史料の正確さ、原作を髣髴させる筆運びなど、第一級のパロディとして楽しむことができた。
「檻」のすばらしさを私は疑わない。にもかかわらず「ホック氏の・・・」を選んだのは、北方さんの作品は他の分野でも充分に評価されうるものだが、授賞作は推理作家協会でこそ評価されるべき内容と考えたからである。
「キリオンスレイの敗北と逆襲」は一筋縄では判定できない、危険な作品である。都築さんの作品には、わざと野暮のふりをしたり、あるいは本当は手ぎわよく見せることができるのに故意にはずして見せたり、一ひねりひねったダンディズムがあって、この「キリオンスレイの・・・」にもそんな気配が強く感じられた。こうした作品を前にして、ダジャレが多過ぎるとか、リアリティを欠くとか、辻褄があってないとか、そんな指摘はみんな見当はずれになりかねない。そのことは充分承知しているつもりなのだが、今回はごく平凡な眼で眺めてみて都筑風ダンディズムが(都筑ファンはいざ知らず)一般の読者に伝わりにくいうらみがあるように判断した。
短編部門では長い論議のすえ、たった一つの連作短編集が選ばれた。五、六十枚の短編一つより連作集のほうが重みもあり、モチーフも明確となる。「残酷な写真」が最後まで残ったが、結末あたりに・・・つまり、忘れていた潜在光景を主人公が簡単に思い出すあたりに若干の不満があった。わくわくするほどおもしろい作品ではあったのだが・・・。「たけくらべ殺人事件」は、いかにもこの作者の作品らしく、史実の枠組の中にフィクションを巧みにはめ込んだ好編だが、推理小説としての味つけが弱いのではあるまいか。
「毛皮コートの死体」は、トリックにも人物設定にも「きわ立つ」ものが薄いように映った。
評論その他の部門に推された「ある書誌学者の犯罪」は、まちがいなく力作である。かつて図書館員であった私にとっては、いささか関係のある世界でもある。英国書誌学界の泰斗が犯した不思議な犯罪の研究は、それ自体充分にこの賞の範囲に属するものであるとは考えたが、本書の場合は学術的に傾き過ぎ、一般性を欠くところが散見された。
それは断じて本書の欠点ではないけれど、エンターテインメントとしてはややなじまない部分があるように思った。以上、役儀により選考をおこない、その事情を率直に申し述べた次第である。閉じる
- 眉村卓[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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◎長編賞部門
「ホック氏の異郷の冒険」は、シャーロック・ホームズが、例の三ヵ月の空白に日本に来たとの設定をとっている。原典をふまえながら、なるほどホームズなら、明治の日本をこんな風に見たかも知れない――と思わせるように書かれている。語り手を開化期日本の医師にしたのも良かったのであろう。こういう作品は推理作家協会賞でなければ賞の対象になるまいということもあって、授賞作と決まった。
「檻」は、筆力充分の力作である。勢いと気迫にのまれた格好で読まされた。ただ、推理小説としての要素は、必ずしも多くない。その点が論議の的になった。
「キリオンスレイの敗北と逆襲」は、この作者独特の名人芸が、長編仕立てのせいか、こちらが期待していたほどには効果があがっていないとの印象を受けた。
◎短編賞部門
授賞した「傷ついた野獣」は、ブロック紙記者を主人公とする連作集である。一話一話の切り取る角度がそれぞれ少しずつことなっているために、全体として主人公の生活感覚や行動様式が、おのずから浮かびあがってくる感じであった。
「残酷な写真」は、よくまとまった小品である。ただ、お話が出来過ぎているのではないかとの疑念が残った。
「たけくらべ殺人事件」は、さすがによく書かれているものの、いささか盛りだくさんの感をまぬかれないように思う。「年賀状の女」「毛皮コートの死体」も、おのおの特色を持っているが、他の候補作をしのぐには至らなかった。
◎評論その他
「ある書誌学者の犯罪」は、資料をたんねんに集めた興味ある著作だけれども、推理小説に関する評論としては物足りないということで、見送りとなった。閉じる
- 泡坂妻夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今年の候補作長編三篇はどれも感心した。「キリオンスレイの敗北と逆襲」は都筑氏ならではの本格推理だと思う。この作品ではマザーグース殺人事件、名探偵への警告電話、殺人現場に落ちているトランプ、密室、死者からの電話、関係者が揃っている最中での殺人といった探偵小説独自の素材が、独特の感性で料理されている。その感性は野暮なものに対する強い嫌悪が根底になっていると思うが、その結果、素材を突き詰めない、話が佳境に入ると体を躱す、楷書でなく草体に崩す、駄洒落と珍品の小道具をちりばめて読者を煙に巻く。これは都会人が守り育ててきた粋の精神、太夫がさらりと唄い流す小唄の味なのである。ときにはわざと調子を狂わせたり裏声で逃げることもあって、不完全なところに却って得難い価値がある。しかもその底には、宝石にも似た独創性がさり気なく埋め込まれている。犯人がマザーグース事件にしなければならなかった動機がそれで、この発想は今までになかったものだ。
「檻」は都筑氏の場合と全く正反対の感性で書かれた小説だと思う。正攻法できめるところはきちんときめ、押すところは押しタイミングよく大見得を切る。主人公は逞しく腕力は抜群、全ての女性から慕われる。男の純情、男の誇り。血と涙。理屈はいらない。小気味良い文章について行くと映画でも見ているようで思わず手に汗するほどである。ただ、その感銘は推理小説から与えられる知的な興奮とはかなり違う。また作者は意識的に推理小説的技法を退けているふうにも感じた。
「ホック氏の異郷の冒険」の書き方には驚いた。読みながら、これはドイルの翻訳小説を読んでいるのではないかという錯覚に何度も陥った。それほど文章といい筋の運び方といい本家そっくりなのである。明治初期の東京も目に見えるようだ。そこにホック氏が登場していかにも彼が言いそうな日本文化論など聞かせてくれる。欲を言えば趣向の枠が強すぎて、もう少し楽でもよかったのではないか。
以上、三作とも個性的な作品で選考は長引いたが、最後の投票で先のように決定した。
短編部門は総体に筋が複雑なものが多く、すっきりとしたまとまりに欠けていたように思う。しかし「傷ついた野獣」のように連作として一冊になると、その世界に重量感が現れ連作部門授賞作としての価値が生じた。
「ある書誌学者の犯罪」は事実のみ書くという犯罪ドキュメントで、主観を押えた描写がよかったのかが疑問だった。そのため、恐らく舌なめずりしながら偽造本を作っていたであろう怪物の像がせまってこなかった。その犯罪者の心理まで及ぶ筆が欲しかった。閉じる
- 石沢英太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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選考委員会に出席する前日、外出して、駅の階段を登ったとき、ちょっと、めまいがして、しゃがみこんしまったのだが、医師に診てもらうと、既往症からして、旅行は控えた方が・・・というドクター・ストップが、掛ったので、選考結果は、電話で協会の方へ連絡した。
長編賞部門は、北方謙三氏の「檻」と、加納一朗氏の「ホック氏の異郷の冒険」を推した。
選考の結果、加納氏に決まったが、もちろん異論はない。
シャーロック・ホームズらしき、探偵役が、日本の明治中期にあらわれ、事件を解決するのだが、入念な筆致で、タイム・トンネルみたいに、明治のフンイキに導き入れて、重厚な明治時代の政治・風俗に酔わせてしまう。
これは、これで、珍重すべき作品だろう。
短編賞部門は、伴野朗氏の「傷ついた野獣」と、小林久三氏の「残酷な写真」が、射程に入った。
「傷ついた野獣」の背景がいい。日本海に面した県庁所在地という、あまり書かれていない土地を舞台にしている。
三十過ぎて、気ままな独身暮しをしている新聞記者が探偵役だが、市井の人々の哀歓を描いて、あますところがない。ちょっぴり正義感らしきものも主人公は、持っているが、この素朴な正義感も、いかにも田舎記者らしく、また被害者に対する同情も、ふくまれて、各作のあと味が、すこぶるよろしい。
次の小林久三氏の「残酷な写真」だが、これは、キッチリまとまった秀れた短編だ。
しかし、私は終始、松本清張氏の「火の記憶」を頭に浮かばせながら、この作品を読んだ。それで点数が、少し、からくなって次点にした。閉じる
- 中薗英助[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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長編部門の三作は、それぞれの作家の持味を発揮したものと思われたが、何れか一作をとなれば、加納一郎「ホック氏の異郷の冒険」を推す。シャーロック・ホームズを歴史ミステリーの枠組の中に拉し来ったパロディ風の趣向はきわめて大胆だが、細部への落着いた眼配りがきいており安心して読めた。スパイ戦の仕掛けがやや弱いが、己れ自身を知る人の咲かせた大輪の花であろう。
都筑道夫「キリオンスレイの敗北と逆襲」には八方破れの名人芸といった趣があり、二十年来の読者たる当方には比較的親しめる世界だが、モザイク風の殺人事件がよく呑みこめなかった憾みがある。この人には、何か特別賞のようなものが必要だろうと思う。北方謙三「檻」は、極度に圧縮し、あるいは省略された男性的な超ハードボイルド文体に瞠目させられた。人間関係のしがらみにも眼がとどいているが、細分化された主人公への感情移入が妨げられ、檻を突破する動機、経緯に充分ついてゆけないのが残念だった。
短編部門では初め、ベテランの小林久三「残酷な写真」を筆頭にして、推理小説新人の近藤富枝「たけくらべ殺人事件」、伴野朗「年賀状の女」の三作をほぼ一線に並べて評価し、粒選りの複数授賞もあり得るかという気持で選考会に臨んだ。しかし、小林、近藤両作品に人物設定、ストーリー展開等に難点があるということになると、これと並ぶ伴野作品の弱さも目立って来ざるを得ない。
連作短編集「傷ついた野獣」では、表題作そのものは「年賀状の女」にやや及ばないと見るが、連作短編の達成として見るとき、他の単独短編候補作より若干ハンディをつけたとしても、前回にもこの中の「少年の証言」を推した記憶があり、水滸伝風の伴野冒険小説とは異って地方(とくに東北)記者の哀歓をこめた短編ミステリーの新領域を開いた花花として、授賞作とするのが順当であろう。
梶龍雄「毛皮コートの死体」は、多才をうかがわせるものの成功作とはいい難く、より得意の分野で勝負してほしいという感想を持った。また蛇足ながら、樋口一葉探偵の「たけくらべ殺人事件」は、次作に期待させる魅力充分であった。
評論その他の部門候補作は高橋俊哉「ある書誌学者の犯罪」だけだが、第一流の書誌学者ワイズが偽造本作りに励んだというスリルに満ちた知能犯物語、あるいはミステリー風の独自の切口を持つ評伝として評価するには、あまりにも専門的な研究書解説書風の領域に過ぎる労作であるといわざるを得ない。閉じる
- 西村京太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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(長編)
「ホック氏の異郷の冒険」と「檻」は、甲乙つけ難かった。小説としての面白さからいえば、「檻」の方が上かも知れないが、「ホック氏の異郷の冒険」のような仕事は、大変な作業で、推理小説の前進のために必要なことである。その点を考えて、「ホック氏の異郷の冒険」を推すことにした。
「キリオンスレイの敗北と逆襲」については、いかにも、都筑氏らしい作品だが、この作品に関していえば、遊びが過ぎるようで、感心しなかった。
(短編)
どの作品も、欠点が、はっきりし過ぎている。「毛皮コートの死体」は、すり替えのトリックが雑である。ストーリイも平凡。「たけくらべ殺人事件」は、明治の吉原の雰囲気はよく書けているが、推理小説としては、物足りない。これも、すり替えトリックなのだが、あとから、双子だったと説明されるのは困るし、菊の花びらで解けるのも、平凡だろう。残りの二編、小林久三氏の「残酷な写真」と、伴野朗氏の「傷ついた野獣」のどちらかということになるのだが、小林氏の方は、ラストを、あのように落とすより仕方がなかったかも知れないが、いかにも、作りものという感じは否めない。伴野氏のものは、ストーリイは平凡だが、地方記者の日常といったものが、よく書けている点を買った。
(評論その他の部門)
著名な書誌学者でありながら、偽造本も作って金儲けをしていたワイズという人物は、確かに面白いのだが、推理小説の評論ということになると、疑問だろう。閉じる