1988年 第34回 江戸川乱歩賞
受賞の言葉
父の構えるミットに向かってボールを放ることが夕食前の日課になったのが、小学校に入ったばかりのころ。以来、中学、高校、大学、社会人と、三十年近くにわたって野球は私の人生の良き友であり続けました。
少しばかり体が重くなり、そろそろバットを置こうかと思い始めた時に、野球をテーマにした小説で乱歩賞というビッグタイトルを手にすることができました。野球との離別の危機を救っていただいた選考委員の方々に、心からお礼を申上げます。
処女作で受賞ということについては、幸運と思う一方、果してこの先このレベルの作品を書いていけるのかという不安が先立つのも正直な気持ですが、選んでくださった先生方や“乱歩賞ファン”の皆様の期待にこたえられるよう、精いっぱいがんばるつもりです。
ありがとうございました。
- 作家略歴
- 千葉県松戸市出身。東京大学卒業。一九八八年「白色の残像」で第三四回江戸川乱歩賞を受賞してデビュー。他に「ダブルトラップ」(「二重の罠」と改題)(講談社)、「ヘッドハンター」(日経)、「幻のラリー復活への1000日」(日経/本名で出版)など。大学時代は東大野球部の遊撃手として活躍。デビュー作には、その野球経験が活かされている。現在、三菱商事(株)に勤務。情報産業グループ経営計画担当マネジャー。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度乱歩賞は、一月末日の締切りまでに応募総数三六九篇が集まり、予選委員(及川雅、関口苑生、原田裕、松原智恵、松村喜雄、結城信孝の六氏)により最終的に下記の候補作四篇が選出された。
なお、会報六月号で発表した候補作のうちに作の作者名に変更があったので次のように訂正する。
(「倒錯のロンド」北野凌→折原一、「白色の残像」太田俊明→坂本光一)
<候補作>
倒錯のロンド 折原 一
衛星作戦の女 池上敏也
白色の残像 坂本光一
鬼火列車 吉岡道夫
この四篇を六月三十日(木)福田家「扇の間」において、選考委員・海渡英祐、北方謙三、日下圭介、中島河太郎、和久峻三の五氏(五十音順)の出席のもとに、慎重なる審議の結果、坂本光一氏の「白色の残像」に決定。授賞式は九月二十八日(水)午後六時より帝国ホテルにて行われる。閉じる
選評
- 海渡英祐[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今回は、他の選考委員諸氏と私の見解は大きく喰い違った。まず、当選作の『白色の残像』についてだが、たしかに力作感はあるものの、根本的なところで二つの大きな難点があり、私にはどうしても納得できない。
その一つは、向井という中心人物の心理状態で、高校野球を浄化するためと称しながら、やっていることはまったく逆であり、その点に無理がありすぎる。自分が監督をしているチームの選手たちに汚名を着せるのも辞さず、賭け屋と関係まで持つという、目的のためには手段を選ばない行為が、理想主義に発したものだと言われても、とても正気の沙汰とは思えない。信光学園の不正を糾弾するためなら、たとえばOBを一人抱きこんで証言させるなど、まともな手段がいくらでもありそうなものだ。
もう一つの難点は、殺人現場の設定のしかたである。甲子園大会のさなかに、賭け屋が優勝候補二チームの監督を自宅へ呼びつけるというのは、何とも非常識な話で、しかもその理由がまったく記されていない。事件関係者の動きがいかにも御都合主義で、安直な感じを受けるし、密室殺人についてもかなりの無理が目立つ。
私がベストに上げたのは『倒錯のロンド』で、いちばんオリジナリティがあるし、小説のうまさという点でも群を抜いていると思う。着想の面白さと洒落っ気によりかかったお遊びの産物であり、パロディとも言えるこの種の作品は、人によって好き嫌いの差が激しいのだろうが、私は高く評価したい。生半可にリアルぶっていながら、おかしなところだらけの凡作が氾濫しているだけに、よけいこうした才能を買いたいのである。
『衛星作戦の女』はいちおうの水準に達しているが、話の運びが強引すぎるし、味も素気もない文章で、人物もうまく描けていない点に不満をおぼえる。『鬼火列車』はオリジナリティに乏しく、やたらに視点の変るスタイルといい筋立てといい、全体に御都合主義が眼にあまった。閉じる
- 北方謙三[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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候補作の四篇は、ある水準に達していた。ようやくある水準に達していると感じられるものもあれば、まだある水準に留っていると思えるものもあった。そのあたりの見極めも、選考の任を負った者の、責任の一つだろう。
四篇とも、それぞれ毛色は違っていた。
気になったのは『鬼火列車』という作品である。それなりの技倆はあるが、あまりに類型であった。この種の賞では、それは大きなハンデとなる。ミステリーというものから離れて、人間を見つめ直す作業を、一度試みたらどうだろうか。なまじの手練れだけに、惜しまれる。
受賞作は。高校野球を扱ったものであるが、私は野球小説としては読まなかった。ある意味では、青春小説、成長小説として読んでもいいものだった、と思う。野球については詳しいし、それがあるリアリティを付加していることも確かだが、むしろかつて高校野球に打ちこんだ男たちの、血の熱さの方に迫力があった。野球賭博やセミプロ化した名門高校の野球部の実態もかなり描かれているが、それは物語を索引するためのものとして、私は読み進めた。
この作品の欠点は、いくらでも指摘できる。名門高校で選手に施されている特殊な訓練のリアリティ、後半の密室殺人の安易さ。乱歩賞というものを、意識しすぎたのではないか、と感じられる部分が多少あった。
しかし、私が読後にまず感じたのは、減点法で評価すべき作品ではない、ということだった。この作品には、読むものに投げかけてくる、なにかがある。それは作者自身の思いかもしれない。ことばでは表現しにくい、熱気のようなものかもしれない。そしていま、小説が必要としているものは、まさしくそのなにかなのではないか。
そういう思いで、躊躇なくこの作品を推した。しばらくは、型にこだわらずに暴れて欲しい。閉じる
- 日下圭介[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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「白色の残像」
読んで気持ちのいい作品だった。メッセージがある。高校野球に対する作者の熱い思いが(批判も含めて)心地よく伝わってくる。ディテールも適確だ。しんからの悪人を登場させないという優しさも、好感が持てた。だが、殺人事件に関しては、やや精彩を欠く。特に最後の事件では、展開と収拾の仕方が強引でリアリティーを欠くのが気になった。野球を巡るサスペンスだけで、じゅうぶん魅力があるのだから、殺人事件はなくてもよかったのではないか。
「衛星作戦の女」
この作品では、殺人事件がひとつも起こらない。それでいて最後まで引き込まれた。他の候補作のように、ヘンな刑事を読まされずに助かった。しかし読後、これといった印象が残らないのは不思議なほどだ。若い女性を主人公に選んだのは、この作品の場合、失敗ではなかったか。日米企業の謀略戦という本来シリアスなテーマが、ヒロインが活躍すればするほど、軽くなってしまう。「イカワ」というスパイのありようも、疑問を感じた。力のある作者と思えるだけに、今後を期待したい。
「倒錯のロンド」
主要登場人物のほとんどが、異常者だというのでは、まともに読んだ方が、ずっこけるばかりだ。読者は誰に感情移入しろというのだろう。着想はともあれ奇抜で、虚実すれすれの、薄氷を踏むような表現の工夫は評価したいが。
「鬼火列車」
芯のない作品だ。何を書きたかったのか。真相追求の過程も、偶然とご都合主義の連続だから、推理のカタルシスもなければ、サスペンスもない。文章や構成は悪くないので、推理小説を甘く見ず、出直してほしい。閉じる
- 中島河太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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多くの応募作品の中から選ばれた候補作だけに、それぞれ詠みごたえがあった。
折原一氏の「倒錯のロンド」は、推理小説賞の応募作を車中に置き忘れたので、それを拾った別人が投稿する話で、構成に工夫が凝らされている。
それを「狂気」で処理しようとしたため。説得力に欠け、文章も粗くてせっかくの構想を生かしきれなかった。
池上敏也氏の「衛星作戦の女」は、日本とアメリカの会社が新薬の特許出願をめぐって抗争する話である。その背後にひそむスパイの追求と策謀のからくりを描く文章はなだらかだが、盛りあがりに欠けている。
坂本光一氏の「白色の残像」は、高校野球の改革をめざす監督たちの意図が、熱情をもって描かれている。球界美談めいた趣向もあまり気にならないほど、ひたむきな態度に、さわやかな後味を覚える。
さらに野球賭博や打撃の秘密をからませ、野球界の裏面に目を向けて、作品の幅を拡げている。ただ殺人事件の謎を密室仕立にしたため、その解明が窮屈になっているのが惜しい。
吉岡道夫氏の「鬼火列車」は、人気女優の死が自殺説から他殺説に傾く。画商の慕情や犯人の追求など、達者な筆使いでまとめられてはいるが、新鮮味に乏しかった。
私は「白色の残像」を一位に、「衛星作戦の女」を二位に推した。閉じる
- 和久峻三[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今回は、力作が目についた。そのなかで、「鬼火列車」と「白色の残像」の二作を推した。
「鬼火列車」は、破綻が少なく、まとまった作品であり、作者が一応“書ける人”であることをうかがわせる。
その反面、新人らしい個性や、今後の可能性を感じさせるものが乏しいという意見が出た。
しかし、この作品を受賞の対象外へ追いやるのは、惜しいという気持ちを、いまでも、わたしは抱いている。
野球をあつかった「白色の残像」は、球種をバッターに知らせ、確実にヒットを打たせるという、その手口にひかれるものがあり、野球には全くのシロウトであるわたしにも、なかなか、おもしろく読めた。だが、球種を知る仕掛け、つまり「手品」が、実際のゲームにおいて、果たして、それなりの威力を発揮するのか、言うなれば、野球を知る読者を充分に納得させるにたりるリアリティをもつものか、どうか、野球に弱いわたしには、ちょっと、わかりかねたものの、野球にくわしい委員の意見に従い、この作品を支持した。
「衛星作戦の女」は、着想はいいのだが、もう一つ、迫力に欠く。着想倒れに終わったかの感もある。
特許紛争というのは、この作者の想像をはるかにこえた熾烈なものだ。そのへんのところが、いかにも、ものたりない。作者の意図は、日米の製薬会社の駆け引きをリアルに書き込むことにあったらしいが、残念なことに、中途半端なものになってしまっている。いずれにしろ、作者としては、この種の作品を手がけたいのなら、もっと緻密な取材が必要であったろう。
もしかすると、作者自身が、選ぶテーマを間違えているのではないかとさえ、わたしには思えた。
「倒錯のロンド」については、その手法自体は、さして新しいものではなく、何よりも、作品を読み終わったときの後味の悪さがマイナスに作用している。閉じる