1994年 第40回 江戸川乱歩賞
受賞の言葉
年に何回か国選刑事裁判の弁護を頼まれ、法廷で検察官と対面する機会がある。彼らはいつも完璧な証拠を提出してくる。どんなにささいな事件であってもけして手を抜くことはない。刑事法廷で出会う検察官の真摯な姿勢には、手ごわさと同時に同じ法曹として畏敬の念さえ感じるときがある。
このようにして、わが国の精密刑事司法は実現され、英米とは比較にならない高い有罪率が維持されている。しかし、一方で検察官の不足は抜本的に解消されず、精密刑事司法の担い手たちもオーバー・ワークに苦しんでいる。圧倒的な強さとそこに潜む脆弱性。この作品で目指したのは、現代的なエンターテインメントであるが、それプラス検察、もっと広く法曹界が直面する潜在的な危機も描きたいと思った。
わが国では法廷ミステリー以外のリーガル・サスペンスは、いまだ未開拓の状態にある。その新しい分野をわずかでも切り拓くことに挑戦した。
乱歩生誕一〇〇年の記念すべき年に、この作品が選考委員の方から評価を受けて本当にうれしい。ミステリー新人公募での最高峰の賞を受賞したことは、三十代最後にして、人生の大きな転機にもなりかねない。
乱歩賞がこれまで生み出してきた多くの先達に少しでも近づければと思っている。
- 作家略歴
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1955.9.12~
早稲田大学法学部卒
弁護士 「検察捜査」第四〇回江戸川乱歩賞 他に「違法弁護」「司法戦争」などのリーガル・サスペンス、法曹界、司法問題に関する評論
趣味 サバイバル・ゲーム
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度乱歩賞は、一月末日の締切りまでに応募総数二九六篇が集まり、予選委員(香山二三郎、郷原宏、関口苑生、松原智恵、山前譲、結城信孝の六氏)により最終的に左記の候補作五篇が選出された。
<候補作>
検察捜査(「検察官の証言」を改題) 中嶋 博行
AV-BLUES 霧島 皐
神々の砂漠 園田 幸夫
白き煉獄 三宅 彰
川沿いの町 釣巻 礼公
この五篇を六月二十八日(火)「ふくでん 寿の間」において、選考委員・阿刀田高、生島治郎、井沢元彦、五木寛之、西木正明の五氏(五十音順)の出席のもとに、慎重なる審議の結果、中嶋博行氏の「検察捜査」に決定。授賞式は九月二十六日(月)午後六時より帝国ホテルにて行われる。
なお、受賞決定後に受賞作のタイトルが変更された。閉じる
選評
- 阿刀田高[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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専門知識を駆使した候補作が多い。今回の最終選考でも、法曹界の内幕、核査察、自動車のメカニズムなど多彩であった。小説が新しいものを読者に知らせる営みである以上、これは望ましいことである。
だが、その示し方は、どうあればよいのか。
著者自身がその分野に精通していることは当然の条件だが、小説の場合、その知識を詳しく、正しく書き連ねれば、それでよいというものではあるまい。
私見ではあるが、ポイントとなる知識を二つ三つ、これは詳しく、明解に提示すること、そして、臨場感を高めるための目くらましを二つ三つ、それが目安ではなかろうか。いずれにせよ、特殊な知識の上に成り立っている作品は、そのプレゼンテーションに、おおいに工夫があってしかるべきであろう。読者をして、
――よくわからないけど、ふーん、おもしろいな――
知識の部分を読むことが、喜びとなる領域にまで昇華させることが肝要である。
この点「検察官の証言」はみごとであった。検察を中心とする法曹界の問題点がわかりやすく、興味深く描かれている。「神々の砂漠」も出色のできであり、IAEAがどんな調査をやるのか、一端を鮮やかに示して全体がわかったような気にしてくれる。「川沿いの町」は、べったりと書き過ぎてしまった。「AV-BLUES」は、AV業界の雰囲気を軽く読ませることには成功しているが、推理小説の部分がいかにも脆い。「白き煉獄」は、推理小説で狂気を扱うことのむつかしさを、もう一度考えていただきたい。
受賞作の、他の長所を述べる紙数はないが、総じて第四十回の節目にふさわしい力作だと思う。「神々の砂漠」も心残りである。水準には達していたが、受賞作に敗れた、というのが実感である。閉じる
- 生島治郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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乱歩賞の候補作は次第にレベルが高くなってきて、読むのが楽しみになってきた。
最終候補の五本とも、それぞれに読ませる部分を持っている。
ただ、あまりに大きな仕かけにこだわりすぎると、アマチュアだけに、手にあまるのかむりなこじつけになったり、後半が辻褄合わせに終始するという結果に陥りやすい。『AV-BLUES』や『白き煉獄』はその意味で失敗作である。
しかし、その失敗がなければ、プロになる可能性はないわけではない。
『川沿いの町』は着想が良いし、テーマも面白いのだが、視点の多様化に作者自身が手こずったらしく、そこに読みにくさがある。もう少し、視点をしぼって、読者がついてこれやすいように工夫すべきだろう。
『神々の砂漠』は人物の描き方が平板だが、核査察の現場は作者が専門家だけに良く描けている。
砂漠やベルリン、バグダットといった海外の風景描写にもリアリティがある。
もし、主人公が突き抜けた個性を持っていたら、この作品はすばらしいものになっていただろう。
私はこの作品は受賞してもおかしくない作品だと思った。
『検察官の証言』は、主人公の女性検事と事務官のコンビが絶妙で、検察対日弁連の対決という、ともすれば仕かけだけ大きくて、告発物になりやすいストーリイをユニークな作品に仕立てあげている。
伏線も周到であり、ユーモア感覚もあり、この作者は今後プロになり得る才能を充分に持っている。
ただ、犯人の視点が欠けているのが、いささかアンフェアに思える。この書き手の才質からすれば、難なくカヴァーできる難点だと思えるのだが。いずれにせよ、今後が楽しみな新人である。閉じる
- 井沢元彦[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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「川沿いの町」、殺人を犯すためのアイデア(トリック)は悪くないし舞台設定もいいのだが、話がわかりづらいし結果的に面白くない。これはエンタテイメントとしては致命的である。作者は「小説の面白さ」というものをもっと追求して欲しいと思う。
「白き煉獄」も一種のサイコミステリーだが、どうも設定が古めかしいし、叙述方法にも問題が残る。これは後味の悪い話になるのはやむを得ないとしても、出来のいいミステリーを読んだ後は、それなりの満足感が残るものだが、この作品にはそれがない。これも広い意味での「面白さ」の問題なのかもしれない。
「AV-BLUES」は、前ニ作とはまったく逆で一番読みやすく、一通りの「面白さ」もあった。またAV業界の人間模様もそれなりに描き分けられている。しかし、ミステリーとしての「驚き」がないのだ。作者は犯人の「意外性」にそれを込めたつもりかもしれないが、その程度のことではダメなのだ。ミステリーの「驚き」「知的興奮」といったものを作品に加えてもらいたい。
「神々の砂漠」、この作品はいわゆる「広義の」ミステリーだろう。だから、「アイデア」や「意外性」に注文はつけないが、この作品ならもっと「人間」を描き込んで欲しい。こういう小説は主人公やそれを取り巻く女性や男たちに魅力が無ければどうしようもない。そこのところをじっくりと考えて次回もまた挑戦して欲しい。
「検察官の証言」、最後に残ったのがこの作品だが、長所については他の選考委員の選評を参照して頂くとして、私は二つ不満がある。一つはこのミステリーに果たして殺人事件は必要か、という問題だ。詳しくはネタを割ることになるので言えないが、それは犯人(黒幕)のリアリティにもからんでくる。殺人を犯すというのは(犯人を隠すためでもあったのだろうが)充分に書き切れているとは言えない。これが第二の不満だ。困難な課題をこなすのがミステリーである。この点、もう少し考えて頂きたいと思う。閉じる
- 五木寛之[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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“少数意見への言い訳”
ミステリーという形式に通じていない私が、あえて乱歩賞の選考の仕事にたずさわってきたのは、「推理小説」の「小説」の部分にアクセントをおいて何か発言する余地があるのではないかと考えたからである。これまでしばしば乱歩賞の性格をはみだした感じの選後評を書かせてもらったりしたのも、そのためだった。今回、最後の選評を提出するにあたって、候補作家、選考委員会、また編集者や読者のかたがたにも片寄った仕事ぶりのお詫びを申上げておかねばなるまい。
例によって今回も私の支持作品は、おおかたの他の委員の意見と大きく食い違うこととなった。
私が興味深く読んだ作品の第一は、AV制作の業界を舞台に選んだ霧島皐氏の『AV-BLUES』である。この世界を描く作家がどうして出てこないのだろうと、かねてから不思議に思っていたこともあり、読みやすい平明な文章につられて、最後まで一気に読み終えてしまった。この作者の長所の第一は、作品の舞台を選ぶジャーナリスティックな感覚である。その二は、平凡だが読みやすい文章を道具のように無造作に使う感覚だろう。もちろん、他の委員諸氏から一笑に付された推理面での薄弱さ、結末の安易さ、ストーリー構成の不用意さ、などについては私の弁護力のおよぶところではない。途中で投げ出さずに十年間書き続けてゆけば、プロの書き手として通用する素材ではないかと思う。
スケールの大きな作品としては、園田幸夫氏の『神々の砂漠』の右に出るものはあるまい。筆力もあり、時代性も充分で、新しい山中峰太郎の登場かと胸をはずませて読んだが、いかんせんこの分野には外国作品の傑作が目白押しである。どうしてもついその辺と比較してしまうので、読後に不満が残った。ただ才能に関しては、今回の候補作中の随一だと感じたことは事実である。
『白き煉獄』と『川沿いの町』は、ともにやや古風すぎる完成が惜しい。漢字のつかいかたや、題名の選びかたなどに、おのずとそれがにじみ出してくるようだ。
受賞作に決定した中嶋博行氏の『検察官の証言』については、さまざまな意味で生島治郎氏ほか他の委員の感想に啓発されるところが大きく、やはりこの作品への授賞は当然かな、と納得した。ただし、私だったらこうは書かない。人間の<罪と罰>をめぐるこの二つの巨大組織に関しては、さらに深く、執拗に書き続けられるべきだろう。単行本になったところで、もう一度あらためて中嶋氏の作品を読み返してみたいと思う。閉じる
- 西木正明[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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新しい受賞者決定を祝う意味合いもある選評を、いきなり苦言ではじめるのはつらいものがあるが、敢えて冒頭に書く。最終選考に残った作品は、いずれもワープロ原稿だが、漢字がやたら多く、文字がびっしりと詰まった読みにくい原稿がほとんどだった。読みやすい原稿を書くというのは、読者に対する初歩的礼儀であるはずだ。今後応募される方々への課題として、いわずもがなのことを申し上げた。
そうした中で、霧島皐氏の『AV-BLUES』は、文章もこなれていて、比較的読みやすかった。AVという、いわゆるきわもの的な題材に正面から取り組んだ意気込みもかう。しかし、残念なことに後半息切れしてしまった。
三宅彰氏の『白き煉獄』は、サイコロジカル・ミステリーという、このようなコンテストの舞台ではかならずしも有利ではないテーマに取り組んだ気概はいい。だが、これも前半が快調、後半息切れという落とし穴にはまりこんでしまっている。
『川沿いの町』(釣巻礼公氏)は、一時期問題になったオートマ車の事故をテーマにした意欲作だ。ミステリーとして、それなりのまとまりもある。問題は、視点が散りすぎていて、人間がきちんと立ち上がって来ないことだ。捲土重来を期待する。
園田幸夫氏の『神々の砂漠』は、中東を舞台にした壮大な冒険小説。全体のまとまりも良く、おもしろく読ませるが、物語の展開にぎこちないところがあったのと、やや類型的だという指摘があって大魚を逸した。さらなる奮起を望む。
受賞作の『検察官の証言』を書いた中嶋博行氏は、現役の弁護士である。その強みを生かしての法曹界内部の生々しい描写が圧巻だった。物語を矮小化せず、法曹界のタブー的なテーマに挑戦した志の高さが認められて、授賞につながった。主人公の女性検事をはじめとする登場人物もそれぞれに魅力的だ。
今回はこれしかないと思って選考の席に臨んだだけに。先輩諸氏も同じ意見だと知った時はうれしかった。ただ、タイトルは良くない。いい古されたことだが、タイトルも作品の善し悪しを決定する大切な要素である。閉じる
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第40回 江戸川乱歩賞
- 『AV-BLUES』 霧島皐
- [ 候補 ]第40回 江戸川乱歩賞
- 『神々の砂漠』 園田幸夫
- [ 候補 ]第40回 江戸川乱歩賞
- 『白き煉獄』 平尾彰
- [ 候補 ]第40回 江戸川乱歩賞
- 『川沿いの町』 釣巻礼公 (『暴走』として刊行)