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1993年 第39回 江戸川乱歩賞

1993年 第39回 江戸川乱歩賞
受賞作

かおにふりかかるあめ

顔に降りかかる雨

受賞者:桐野夏生(きりのなつお)

受賞の言葉

 昨年、旧東ベルリンを旅行した時、東洋人を見る目付きの鋭さにショックを受けた。その不安を、金払いのよさでごまかそうとすれば、たぶん、彼らは誤解しただろう。
 だが、高いプライドとやり場のない不満からは、何か崇高なものが生まれそうな気配もあった。それが、ネオナチを通過せざるを得ないとしても。
 一方、取材で東京の夜を巡れば、個々の不満はあるらしい若い人たちが、フェティッシュな遊びに興じている。それらは装いにしか過ぎない。しかし、中には、自らの肉体を痛めつけて、忘我の境地に至ることを目指す者もいる。
 片や全体の問題。片や自分の問題。そこに面白さを感じて、何とか両者に線引きだけでもして物語が書けないだろうか、と考えたのが今度の作品の発端である。
 もちろん、すべて成功したとは思っていない。これから、読者の審判を受けるのは、正直恐ろしくもある。
 しかし、乱歩賞という権威のある賞をいただけたことは、本当に嬉しい。深い川をようやく一つ渡って、ほっと空を見上げているというところだろうか。また気持ちを新たにして、よりよい作品を生むように心掛けたい。
 ちなみに女主人公のミロという名前は、私の好きな酔いどれ探偵、ミロドラゴヴィッチから拝借した。その時、密かな願をかけたのが、幸いしたのだろう。

作家略歴
1951~
石川県金沢市生まれ。成蹊大学法学部卒。会社員を経て文筆業に入る。
九三年「顔に降りかかる雨」で第三九回江戸川乱歩賞を受賞。
九八年「OUT」で第五一回推理作家協会賞受賞。
九九年『柔らかな頬』で第一二一回直木賞受賞。
2004年『残虐記』にて第一七回柴田錬三郎賞を受賞。
2005年『魂萌え!』にて第5回婦人公論文芸賞を受賞。
2008年『東京島』にて第44回谷崎潤一郎賞を受賞。
2021年 第8回早稲田大学坪内逍遙大賞大賞を受賞
「天使に見捨てられた夜」「ファイアボールブルース」「水の眠り灰の夢」など。
趣味は映画鑑賞。

選考

以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。

選考経過

選考経過を見る
 本年度乱歩賞は、一月末日の締切りまでに応募総数二八六篇が集まり、予選委員(香山二三郎、郷原宏、関口苑生、松原智恵、山前譲、結城信孝の六氏)により最終的に左記の候補作六篇が選出された。
<候補作>
 リセット               桃河 和行
 零れる闇               有明  游
 河童が人を殺した話          村井 貞之
 顔に降りかかる雨           桐野 夏生
 夜間検証               森 健次郎
 慟哭の錨――関門海峡シージャック事件 阿部  智
 この六篇を六月二十九日(火)福田家「紅葉の間」において、選考委員・阿刀田高、生島治郎、井沢元彦、五木寛之、西木正明の五氏(五十音順)の出席のもとに、慎重なる審議の結果、桐野夏生氏の「顔に降りかかる雨」に決定。授賞式は九月二十七日(月)午後六時より帝国ホテルにて行われる。
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選評

阿刀田高[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 それぞれの作品に欠点があった。しかし、同時に長所も多い。江戸川乱歩賞はプロ作家の登竜門として多大な実績を残しているが、新人賞であることには変りがない。欠点よりも可能性の大きさにこそ目を向けるべきであろう。
「顔に降りかかる雨」は、登場人物が生きて立っている。個性的である。主人公たちの恋もひとくせあって、おもしろい。死体写真愛好家というのが、どんな生活感覚の持ち主なのか、少々釈然としないところもあったが、
 ――この人は、人間を描くことができる――
 と思った。
 私としては「夜間検証」にも合格点をつけて選考会に臨んだのだが、いくつかの欠点を指摘されてみると、少し評価がさがった。この作品の魅力は、法曹界と、そこに生きる人たちの描写が優れている点にある。ひとかわ深いところで的確に捕らえ、説得力がある。しかし、殺人の動機、方法、小道具としての香水の使い方など、安易なところがある。作者がどの視点で書いているのか、雑なところも目立つ。惜しいと思った。
「零れる闇」は才筆である。好みはあろうけれど、私はこの作者の文章力を評価したい。弱点は、どことなくつじつまがあわないように感じられることが、みんな、
 ――それはアブノーマルな人たちだから――
 と、その性向で集約されてしまうこと。読み手として、ちょっとだまされたような気分に陥ってしまうのである。あと一歩、という感じだった。
「リセット」については、略歴の中に“はじめて小説を書いた”とあった。多分、本当だろう。うまいところと、まずいところが共存している。さまざまなパニック情況や、一瞬の心理を数枚にわたって記す克明さなど、舌をまくほどにうまい。作者がこの作品に託したモチーフが鮮明であれば、もっとよい作品になっただろう。
「河童が人を殺した話」は、民俗学的なモチーフが推理小説にも使えることを匂わせながら、それを書ききれなかった。「慟哭の錨」は、本筋以外の殺人が余計だったのではあるまいか。きっちりと書いてはいるのだが。
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生島治郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 江戸川乱歩賞は本格推理小説ばかりを求めているわけではない。自分の興味のあるテーマ、描きたい世界を、推理小説的な手法を使ってより完璧な小説に仕立て上げられれば合格なのである。
 そういう意味で、今やミステリのジャンルは広がっているし、乱歩賞の裾野も広がっている。新人は自分の描くべき世界がこのジャンルに当てはまるかを考えるべきであろう。
 今回の最終候補作品にも、自分のジャンルを見定められず、ターゲットを絞りそこねて失敗した作品が多かった。
「河童が人を殺した話」や「慟哭の錨」がそのいい例である。二作とも、アプローチは面白いのに、むりに本格仕立てにしようとしたためにリアリティを失い、小説としての味わいをうすめてしまった。
「リセット」はパートの部分では取材と調査に秀れた印象があり、これはと思わせるのだが、全体のまとまりがあまりにも悪すぎる。登場人物をもう少し絞ったり、事件を整理しなければプロの書き手にはなれないだろう。
「零れる闇」は自己陶酔が少し強すぎるようだ。登場人物に自己陶酔の強い人物を設定してもよいが、作者は客観的な視点を持たなければならない。
「夜間検証」は、専門家だけあって、法廷にかかわる部分は読ませるが、視点の設定と事件の設定が甘すぎる。
「顔に降りかかる雨」は、ところどころ筆がすべりすぎて甘くなっている個所もあるが、視点の設定や事件の推移に安定感がある。
 今まで、女性があまり書けなかった切れ味の良さもあり、それでいて、女性でなければ書き得ない描写も光っている。
 プロとしての基本的な技術はマスターしていると見て、私はこの作品が受賞作にふさわしいと思った。
 今後が期待できる女流作家である。
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井沢元彦[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 今回は傑出した作品がなかった。別の言い方をすれば粒が揃っていたとも言えようが、その中で選考委員の評価が最も低かったのが「慟哭の錨」だった。
 この作品は優等生の答案のように一通りまとまってはいるが、新しいところが何も無い。古めかしいのである。新人賞の作品としてはこれでは困る。型破りのところが、せめて一つは欲しいのだ。その点をぜひ考えて頂きたい。
「河童が人を殺した話」は、民俗学の世界を題材に選んだところがユニークで、その点は買えるが、生のデータがあまりにも噴出し過ぎて、話全体の活力を弱めてしまっている。もう少しデータを消化吸収して小説に生かして欲しい。
「リセット」はアイデアとセンスの点で、六つの候補作の中で一番だと思う。ただ、その利点を生かすだけの構成力あるいはキャラクターの創造力に欠ける。そういうことは何度も練習すれば確実にうまくなるのだから、作者の今後に期待したい。
「零れる闇」は私には面白かった。作者はミステリーとして受け入れられるかどうか心配していたようだが、もっと選考委員(予選委員も)を信頼しなさい、と言いたい。ただ、受賞作として強く推すためには、もう一段の「コク」が欲しかった。無論それは枚数を増やせということではない。
「夜間検証」も「零れる闇」とは別の意味で、「コク」というか「奥行き」があれば受賞しただろう。ただし事件や人間関係を複雑にするということが、「奥行き」ではない。このあたりをじっくり考えて頂きたい。
「顔に降りかかる雨」は、全候補作の中で最も欠点が少なく、それなりに新味もある。ただ、他の作品、特に「零れる闇」や「夜間検証」との差はあまりない。筆力はある人だと思うので、今後の精進を期待したい。
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五木寛之[ 会員名簿 ]選考経過を見る
<「リセット」を推す>
 私はいつも変った作品を押す癖があるらしく、今回も桃河和行氏の「リセット」を受賞作に決めて選考会にのぞんだのだが、次作を期待したいという大方の意見がつよく、残念ながら「リセット」は賞を逸することとなった。
 どこか岡本好古氏の初期の作品群を思わせる「リセット」の偏執的なメカ描写は、しきりに私の作家としての好奇心を刺激するものがあった。しかも背後に往時の<国事小説>を連想させるスケールの大きさがある。くわえて一種の民族意識の深層に訴えるサムシング・エルスが行間に漂っていて、欠点は欠点として認めながらも、これはあたらしい小説の可能性を感じさせる作品だぞ、と或るときめきをおぼえながら読んだことを告白しておきたい。この作者に資質には、レニ・リーフェンシュタールの映像のもつ危険な魅力がある。時代がまさにそちらのほうへ傾きつつあるのかもしれない。桃河氏が今後、へたに小説のテクニックにこだわることなく、自分の思うままに書き続けていけば、必ず一家をなすだろうと私は思う。もっとも、小説などつまらない、むしろ実行にしかず、と行動にはしるあやうさもまたありそうだ。アンドレ・マルローのマルローたるゆえんは、行動を志したのではなく、行動主義を志したところにある。どこまでも小説にこだわり続けて、あたらしい地平をきり開かれることを望みたい。
 受賞作の「顔に降りかかる雨」は、「レセット」を除外すれば、私にも納得いく作品だった。部分的に新鮮な描写もあり、小説としてのフォームも一応できている。平凡な題名のようだが、タイトルも私には魅力的だった。ただし、メルセデスのサスペンションを<ふわふわ>と書くのは、ドイツ車の最近の傾向に対する徳大寺先生顔負けの批判か、それとも単に知らないだけなのか、かなり迷わせられたのも事実である。才能あり、ただし、細部にこだわるべし、とアドバイスしておきたい。
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西木正明[ 会員名簿 ]選考経過を見る
 以前編集者を長くやっていたこともあって他人が書いた原稿を読むのは好きである。まして、伝統ある江戸川乱歩賞の最終選考にまで残った原稿ならば、読むにあたって心躍るものがある。
 しかし、今回はそうした期待を若干裏切られた思いがした。平均レベルの候補作がそろってはいた。しかし、乱歩賞という賞の要求水準に照らせば、今一歩という作品が多かったような気がする。したがって、わたしとしては、今年は該当作なしでもしかたがないかと思ったりした。だが、これらの作品を仕上げるために、心血をそそいだ作者の方々のことを考えると、欠点には目をつぶって、将来の可能性に賭けてどれかを選ぶべきかもしれないとも思った。
 というような前提でもういちど全作品を読み返した結果、わたしは「河童が人を殺した話」と「夜間検証」に多少いい点をいれた。
 しかし、これら二作品にしたところで、前述のようにいくつかの問題を含んでいる。
「夜間検証」について言えば、文章に無頓着すぎる。三人称で物語が進行しているのに、ある時突然、わたしという一人称に切り替わったりする所が、複数箇所あった。これは意図的なものではなく、あきらかにケアレスミスである。思うに作者は、当初この作品を一人称で書いたのではないか。もっと大きな問題は、主人公とばかりおもっていた女性が途中で死んでしまい、まったくそれまで登場しなかった人物があらたに主人公として話に入りこんでくることである。
「河童が人を殺した話」は、当初まことに快調であった。ただ、方言の使い方に問題があったことと、実在に人物を登場させる必然性がよくわからなかったことが、印象を弱くした。加えて、犯人が十歳の子供というのは、どう見ても無理がある。
 当選作となった「顔に降りかかる雨」については、たしかにうまくまとまっている作品ではある。しかし、ないものねだりかも知れないが、いまひとつ強烈なインパクトがほしかった。さらに、理由のはっきりしない殺人が出現したりして、わたしとしては高い点を入れることが出来なかった。これを推した選考委員の方々は、作者の将来性を評価されたと考えて、納得することにした。
「リセット」「零れる闇」「慟哭の錨」の作者諸氏については、次回に期待したい。
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選考委員

予選委員

候補作

[ 候補 ]第39回 江戸川乱歩賞   
『リセット』 桃河和行
[ 候補 ]第39回 江戸川乱歩賞   
『河童が人を殺した話』 有明游
[ 候補 ]第39回 江戸川乱歩賞   
『夜間検証』 森健次郎
[ 候補 ]第39回 江戸川乱歩賞   
『慟哭の錨――関門海峡シージャック事件』 阿部智(『海峡に死す』として刊行)