1983年 第36回 日本推理作家協会賞 短編部門
1983年 第36回 日本推理作家協会賞
短編部門
該当作品無し
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 佐野洋[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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第三十六回日本推理作家協会賞の選考委員会は、三月二十九日午後五時より東京新橋の「第一ホテル」柏の間で開かれ、前項のとおり、受賞は長編部門のみ、ほかの部門は受賞作なしという、ややさみしい結果となった。
恒例にしたがい、今回の選考経過を簡単にご報告すると――。
十五名の予選委員の手により長編百六十編、短編五百六十八編(うち連作十六編)が候補作として立てられた。最終予選委員会は二月十四日、十六日に行なわれ、長編四編、短編五編(うち連作一編)にしぼって本選考に送付することになった。
本選考では、長編部門の胡桃沢耕史氏「天山を越えて」が、ほぼ全員の支持を得て受賞と決まった。短編および連作では、これはという作品がなく、中では長井彬氏「遠見二人山行」が支持が多かったものの決定的とまでいかなかった。くわしくは各選考委員の選評に委ねたい。
今回の選考にあたって特に記しておくべきことは、協会報三月号で「協会賞選考規定の改訂について」と題して私がご報告したとおり、三部門制の点で協会内で検討が続けられ、その結果、連作短編を短編の部門に入れ、従来の「短編部門」を「短編および連作短編集部門」と改称したことである。
しかし、この点でも、連作は長編として扱ったほうがいいのではないかという議論や、連作そのものの性格づけの問題が残され、これらは今後の検討にまちたい。
また、評論その他の部門で候補作が立たなかったことは、私個人としてはたいへん残念なことであった。推理のついての評論は労作、力作の形をとることも多く、多数輩出するものではないとは思うが、推理文学の重要な部分を担うものであることから、有能な書き手の健闘を期待したい。閉じる
選評
- 阿刀田高[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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長編部門について。
まずなによりも「天山を越えて」は、読む者の心を楽しませずにはおかない痛快な小説であった。雄大な舞台を背景に、一人一人の登場人物に光を当て"こんなことも実際あったかもしれないな"と思わせる劇的なフィクションを作りあげている。文章の粗さが気がかりであったが、授賞に異存はなかった。
「燃ゆる波濤」もまた気宇壮大な作品で、この作家のすばらしい力量を私は少しも疑わない。文章もそつがない。ただエンターテインメントとして読むとき、これほど情報について詳細で、繁雑である必要があったかどうか。また人間のドラマとして見るとき、人物がいくぶん常套的に過ぎなかったか。風戸、天城、枚方の三人のスーパー・ヒーローが登場するが、三人を区別することさえむづかしいときがあった。
「誤判」は、裁判とはこういうものかと教えられる点、考えさせられる点は多々あったが、この作品のおもしろさは小説本来のものではないように思った。また「リア王密室に死す」は作り物として"少しこね過ぎたかなあ"という印象がなくもなかった。
短編部門について。
「遠見二人山行」は第二章の欺しぐあいが巧みで"これはまちがいなく一編の推理小説だな"と思った。欲を言えば、短編推理小説としての、手並みの鮮かさがほしかった。
「少年の証言」は、好感の持てる作品で、あと味もすがすがしいが、どことなく印象が弱い。地方記者シリーズとして数編まとまったら作者の訴えようとするものが、もっと色濃く現われるのではあるまいか。
月々の小説雑誌に載る一編として読むならば"これはおもしろかった"と読者を満足させ、それゆえに編集者を喜ばせる作品であっても、短編推理小説という綺羅星のごとき名作を持つ伝統の中に置いてみると、もう一つ味わいの薄い作品がある。「後楽園球場殺人事件」には、それを一番強く感じたが、他の作品もまた同じような読後感がなくもない。残念ではあったが、短編部門の授賞作なしに傾いたゆえんである。閉じる
- 泡坂妻夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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「天山を超えて」を読み始めたら、本を手放すことができなくなった。少し勝ち気な老人の日常から、すぐシルクロードを舞台とする雄大な物語に引き込まれる。時代背景、登場人物、物語、虚構が見事に相乗効果を発揮していて、久し振りに小説を読む興奮を味わった。やや荒っぽい構成と描写も小説自体の風格として価値を持っているし、何よりもおおらかなユーモアが楽しかった。今でも、小説の各場面が視覚として記憶に残っている。だから、これが受賞と決まったときは、人事ならず嬉しかった。
「リア王密室に死す」は同氏の乱歩賞作品が好きだったので、大いに期待して読んだのだが、終章の舞台が現代に変ったため、それまでの青春ロマンの盛り上がりが、急に冷めてしまった。この辺に作者の計算違いがあったようで残念でならなかった。
「誤判」は綿密な裁判知識による法廷推理で、死者蘇生のテーマには大きな興味を持った。しかし、ストーリーの展開が、弁護士側に都合よく運びすぎるのが気になって、強く推すことはできなかった。
「燃える波濤」は二千枚を越す渾身の力作と思うが、最大の問題点は小説が未完だということである。本三冊分で、近未来の日本に、やっとクーデターが起こったところで終っている。中性子爆弾、米ソの問題、悪玉の逃亡を含めて、多くの問題を解決するにはこの三倍の分量が必要な気がする。作者はこれから先、どんな驚嘆すべき結末を用意しているのか、計り知れないのである。作品の評価はそれからでないと決められないと思う。
四篇の短篇は、それぞれプロットに工夫がされていて面白い。だが、どれも従来の協会賞作品のレベルに、もう一歩迫るものに欠けていた。推理小説の短篇には、独自の切れ味と凄味が欲しかった。閉じる
- 石沢英太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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選考委員会に出席するに当って、積極的に推せん出きるものは、長篇は、胡桃沢耕史さんの「天山を越えて」、短篇には迷いを持ったまま臨んだ。
「天山を越えて」を買ったのは、筆に勢いがあり、ぐいぐい読ます迫力が、こういった、冒険小説?に馴れない私をも納得させる出来栄えだった。
森詠さんの「燃える波濤」は、作者の意気ごみがわかる力作だ。
梶龍雄さんの「リア王密室に死す」は、前篇の旧高校生のみずみずしい青春像が快よかった。ただ事件が昭和二十三年から二十五年までの京都を背景に描かれているが、偶然その時期、私も京都に居た。政治経済的に、その頃京都は狂瀾怒涛の時代だった。その影が、ぜんぜん学生たちに落ちていないのが、私は奇異に感じられた。
和久峻三さんの「誤判」も面白く読んだ。しかし、積極的には推せなかった。
短篇では、伴野朗さんの「少年の証言」が、私にとって問題だった。私は、東北ブロック紙の落ちこぼれの「はみ出し」記者「俺」の連作ものを愛読しているが、しかし、「少年の証言」が単独短篇として提出されると、読後感がやや弱い。
いずれ連作物としての再評価を期待したい。
長井彬さんの「遠見二人山行」は、入念に作られた作品ではあった。しかし、短篇賞に推せんするには、なお一点衝撃力に欠けた。
新宮正春さんの「後楽園球場殺人事件」は、人並のプロ野球ファンとしての私には充分楽しめた。
トリックも苦心して考えられているのにも、好感を持った。しかし、連作というからは、野球場を並べる以上に、なにかプラスファクターが必要ではないか、と考えた。閉じる
- 小松左京[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短篇候補作の中から、私は「遠見二人山行」を第一に、「少年の証言」と「主犯立たねば従犯立たず」を同列二位とし、長篇部門では「天山を越えて」を第一位に、「燃える波濤」を第二位に、という腹づもりで会にのぞんだ。
「遠見二人山行」は、詮衡会での論議の末、惜しくも受賞を逸したが、私自身は五篇のうちで、一番ミステリーを読んだ、という満足感をつよく味わった。当世風の職場の情事を冒頭にちらと垣間見せて、それがすぐに冬山の遭難事故につながる。社の上司とOLのみそかごとが悲劇によってささやかなスキャンダルとなって暴露され、それはそれで、社会的事件としては幕を閉じてしまってから、さて・・・という導入部も手ぎわがいいし、そのあと事故が実は謀殺だったという事が少しづつほころびて行く過程も、いかにもミステリーらしいサスペンスがあり、それに題名の「二人山行」が、読む者の潜在意識に、心理的な目くらましをかけていて、なかなか真相に気づかせないようにしている所など、よくできていると私自身は思ったのだが、選者の中に、長さをふくめ全体としてやや冗漫とする人もあり、この賞における「短篇」のクライテリアのきびしさと照しあわせて受賞がきまらなかった。その他の作品については、それぞれ選者が単独で推す事があったものの、評価が集中せず、今回は短篇部門は受賞作なしという事になった。
長篇部門では、私以外にも「天山を越えて」を評価のトップに推す人が大勢をしめ、こちらは比較的すんなりと受賞がきまった。推す人たちが異口同音にのべた感想は、いろいろ瑕瑾やひっかかる所はあるにしても、規模雄大な話を、実にたのしんで読めた、という事で、その点私も同感であった。それにくわえて、私自身は中日戦争勃発寸前の旧満州から蒙彊へかけての情勢と、林銑十郎や馬仲英を堂々と登場させる所、さらに後半パミールの方からタクラマカン砂漠へはいって行く描写などに、いつの間にか夢中になってこの作品世界に没入していた。そして全体をまとめ上げるトーンが、ロマンと大人のメールヒェンの間を行くような、何ともいえず大らかな稚気のようなものである事も、忘れていた戦前の「読み物」の世界を思い出させられたようでたのしかった。作者は筆歴も古く、私もずっと昔に何作か読んでおり、それだけに、出だしのあたり、この作者のよくいえば天衣無縫、悪くいえば野放図な作風が、どうまとまるかと、ややはらはらもしたが、中程この世界にひきこまれ、最後に事件から三十数年たって、新中国の新彊地区に再会した主人公の老男老女を、堂々と床入りさせる所など、やはりこの作者ならではと思ってすっかりうれしくなってしまった。最近各文学賞に、熟年のカムバックが目ざましいが、その一環としても拍手を送りたい。
「燃える波濤」の方も、かなり論議があった。三巻にわたってぎっしり書きこまれたこの作品は、近来稀な「力作」である事を認めるにはやぶさかではない。しかし、私自身も、「疑似イヴェントもの」を手がけた経験からいって、社会的事象において、可能性と蓋然性を弁別する事は実にむずかしいという事である。それともう一つ、これも私の経済記者時代の貧しい経験による知識だが、日本のみならず、世界各地域の国家単位の社会には、要所要所に、必ずしもカリスマ的ではないが、「すごみのある人物」「偉大な人物」がいて、それが社会的、政治的決定に大きな役割を果たしているという事である。――この二点についてこの作者がより一層円熟した眼をもつようになれば、この種の意欲的な試みは、すばらしい結実を見せるであろうと思う。閉じる
- 中薗英助[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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長篇では、胡桃沢耕史氏の「天山を越えて」と森詠氏の「燃える波濤」の二篇にしぼっていたが、何れかを強力に推すという積極性を欠いたまま、選考会にのぞんだ。
どちらも冒険小説の系統に属するだろうが、作風は対照的である。前者には、満州事変直後の昭和八年当時を<支那の全土を日本人が自由に旅行できた時代>として、馬仲英への花嫁行列を西北入りされている点ほかいくつかの疑問があったが、各章を劇中劇(作中作)風に文学賞候補作品や記録文書によせてストーリーを巧妙に組み立ててあり、一気に読ませた。実在したアフマッド・カマルも、うまく使われているようだ。後者はむしろ、「フェイル・セイフ」などのPF(政治未来小説)に分類し、わが国初の冒険的作品として評価したい気がした。アジア情勢とむすびつく民族派と協調派のせめぎ合いが内戦を誘発する第三部は、作者が最も熱をこめたところだろうが、第一・二部は情報のミステリーをドラマとしてとらえ切れぬまま押し切った難点があった。
私は両者を足して二で割ったようなこのジャンルの新作を夢想したが、胡桃沢耕史氏のエンターテイナーとしての手腕は抜群であり、他の委員の票も集まっていたので、「天山を越えて」に決定することに異議はなかった。
和久峻三氏の「誤判」および梶龍雄氏の「リア王密室に死す」は、それぞれの分野での堅い仕事と見られたが、作者のこれまでの作品をこえているとは思われなかった。
短篇では強いて取れば、伴野朗氏の「少年の証言」と新宮正春氏の「後楽園球場殺人事件」の二作。前者は、伴野氏の水滸伝風の冒険小説の世界とはまったくちがい、清新な感覚的な才能にひかれた。後者は、カタカナ文字の多い野球小説で、王の眼を追うカメラをトリックにした着想にわたしなどの知らない世界を見た。長井彬氏の「遠見二人山行」は冗漫の感をまぬがれず、かつて長篇「原子炉の蟹」に感銘した者としては、それに拮抗し得る短篇の新境地として推すことはできなかった。閉じる