1989年 第42回 日本推理作家協会賞 長編部門
受賞の言葉
牡丹餅はたいてい辺境をぶらついてるときに棚から落ちてくる。増刷の通知やら受賞の報らせは帰国後はじめて知るケースが多い。今回はイラン北西部のクルディスタンにいた。二千万の人口を持ちながら、イラン、イラク、トルコ、シリア、ソ連に五分割された国家なき民族クルド人の地だ。クルド人の街はすべて峻嶮な山岳地帯に突如としてぽっかり広がる盆地のなかにあり、私の見たイラン領内ではその叛乱を怖れて国軍や革命防衛隊が重火器で高地から盆地全体を取り囲むという具合だった。僭越の誹りを覚悟で言えば、爆発はすぐには起こらないだろう。しかし、クルド人たちの燃えさかる眼差しを見れば、それがひどく遠くないことは容易に想像できる。ずっとパレスチナの陰に隠れて目立たなかったが、クルド人が中東の主舞台に飛びだしてくるのはまさに歴史の命ずるところだと言っていい。私は牡丹餅を食って景気をつけ、これからクルドの物語に挑むことにする。
- 作家略歴
-
1944~2015.4.22
山口県下関生れ。早稲田大学卒。
一九七五年、豊浦志朗名義で「硬派と宿命」を刊行。七九年の「非合法員」以下、「夜のオデッセイア」「血と夢」「神話の果て」「山猫の夏」「猛き箱舟」などの海外を舞台にした冒険小説を手掛け、八九年に「伝説なき地」で日本推理作家協会賞長編部門を受賞する。ほかに「炎流れる彼方」「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」など作品多数。
八九年に「伝説なき地」で日本推理作家協会賞長編部門を、二〇〇〇年に「虹の谷の五月」で直木賞を受賞する。二〇一五年第18回日本ミステリー文学大賞を受賞。
受賞の言葉
実際の公判記録をそっくり、そのまま、なぞるような形のミステリができないものかと考え始めたのは、わたしが司法修習政治代の頃だったから、もう、二十年以上も以前のことになる。
その後、弁護士として実務にたずさわった時期にも、おりにふれ、頭の片隅に、たえず、このことがひっかかっていた。たぶん、こういう形式のミステリは、古今東西、類を見ないことだろうから、是非とも、ものにしたいと思いながら、その機会がないままに経過していたところ、中央公論社から、かの「マイアミ沖殺人事件」のようなミステリを書いてみないかという話が持ち込まれた。「マイアミ沖殺人事件」は、警察の捜査記録の形式を踏んだユニークな海外ミステリではあるが、公判記録の形式を踏襲した作品ではないから、わたしとしては、この機会に、かねてから胸中にあった“公判調書ミステリ”を書き上げてみようと思いたった。かくて、「雨月荘殺人事件」の上梓となった次第であるが、今回、この作品が大方の評価を得たことは、たいへん、有難いことだと思っている。
- 作家略歴
-
~2018.10.10
大阪生まれ。京大法学部卒。記者生活を経て、司法試験に合格後、弁護士登録。京都で弁護士事務所を開く。その一方で多彩な作家活動に入る。昭和四七年「仮面法廷」で第一八回江戸川乱歩賞を受賞。平成元年には「雨月荘殺人事件」で第四二回日本推理作家協会賞を受賞、法廷ミステリーの第一人者として不動の地位を確立。“赤かぶ検事シリーズ”など多くの作品を発表。趣味の写真の分野でも知られ、その技量はプロ並みで、平成五年刊行の写真集「日本の原風景」は日本図書館協会選定図書となる。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 中島河太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
-
第四十二回日本推理作家協会賞の選考は、昭和六十三年一月一日より十二月三十一日までに刊行された長編、各雑誌の一月号から十二月号までに掲載された短編および連作短編集を対象として、例年通り昨年末から選考に着手した。
まず協会員をはじめ出版関係者など各方面にアンケートを求め、その回答結果を参考にして、長編四一五編、短編四九六編、連作短編集三七冊、評論その他の部門二十冊をそれぞれリスト・アップした。
これらの諸作品を協会より委嘱した部門別予選委員一四氏が選考に当たり、長編部門は十八編、短編部門は三六編、連作短編集部門は八編、評論その他の部門は三編を二次に残し、二月二十日、二十二日の両日、協会書記局で最終予選委員会を開催した。その結果、長編七編、短編五編、評論その他の部門三編の候補作が選出された。
本選考委員会は三月二十七日午後五時より、新橋第一ホテル新館・柏の間にて開催。胡桃沢耕史、権田萬治、辻真先、都筑道夫、半村良の五選考委員が出席、理事長中島河太郎が立会い理事として司会した。各部門ごとに活溌な意見が交わされ、慎重な審議が行なわれた。
その結果、各部門で別項のように授賞作が決定した。選考内容については各選考委員の選評を参照していただきたい。閉じる
選評
- 胡桃沢耕史[ 会員名簿 ]選考経過を見る
-
今度の選考は実に大仕事であった。選考会ももうひと月に迫ったころ、どかっと、十一冊の単行本と、五篇の短篇が宅急便で届いた。もしこの中に四冊ばかり、事前に買ったり贈呈を受けたりして読了したものがなかったら、十日は徹夜続きで、選考会に飛びこまなければならないところだった。それだけに全委員、最初はかなり疲労の色も濃く、お互いに一歩も譲らぬという気迫で、緊張の中で議論は始まった。しかしほどなく推理小説に対する価値観が似ていて、エンターテインメントの何たるかを正しく理解している方々ばかりであったので、その挙げる作品は今回はことごとく全員が一致して、論争はなく、終始和やかに会議は進行した。
いいものはいいといえば簡単だが、珍しいほど平穏に、短かい時間で決定した。
審査は短編から始まった。小池真理子さんの『妻の女友達』がほぼ満票だった。他に『異人館の花嫁』と、『三階の魔女』も押す人がいたが、全員一致の声にならなかった。短編の価値は、その中の一ヵ所に思わず読者をドキンとさせるワナがあり、ヤラレターと降参する、鮮やかな切味を見させてくれればいい。
この点見事な作品で、小池さんの当選は当然である。
評論部門はぼくは書いたこともなしに読む力もないので先輩諸氏のご説に従い、よしとする作品に雷同して、一票を入れる。
さて長編だ。六人。その中で島田さんが、別な作品で二冊。船戸さんが一つの長編で、上・下二冊。六人合せてどかんと八冊。いずれも質量共に充実しきった作品でまさに若さ、気力共に今や人生の盛りの人々が、全身でぶっつけてきた物ばかりだ。必死で読んだ。はっきりいって、その全七作、他の時期に登場してきたらそれぞれ全部受賞作にしてもおかしくないものばかりだ。特に女の細腕でなく、女性作家の太腕の腕力には驚嘆した。みな虫も殺さぬ顔をした、美女ばかりなのに。いつからこんなにたくましくなったのだろう。怖しくなった。ご亭主でなくてよかった。
候補作が多ければ当選作も増やせと、中島理事に三作受賞を提案したが、慣例上無理だとのことで、和久・船戸、の両氏に決った。
いわば千代の富士に小錦が残った形だ。船戸さんのは前の方がいいと言う意見も出たが、そりゃー酷だ。前に落しておいて今更何をいうかだ。力作揃いの中で、やはり本気で相撲を取ったら、男の方が力が強かったという結果で、この受賞猛烈な競り合いの中での、力のぶっちぎり勝ちになった。小説の世界も怖しい時代になったものだが、それだけに将来が楽しみでもある。閉じる
- 権田萬治[ 会員名簿 ]選考経過を見る
-
本年度は候補作の数が例年になく多かっただけでなく、それぞれが読みごたえのある力作ぞろいだったので、選考が難航するものと思われたが、結果的には、それほどの異論もなく意見がまとまった。
私としては、事前に心の中で各部門の候補作を、長編は、島田荘司の『異邦の騎士』、船戸与一の『伝説なき地』、和久峻三の『雨月荘殺人事件』、短編は小池真理子の『妻の女友達』、山崎洋子の三階の魔女』、評論は『87分署グラフィティ――エド・マクベインの世界』に絞って臨んだ。
島田荘司の『異邦の騎士』は、名探偵御手洗潔の最初の事件を扱った作品である。記憶喪失者を利用する話で、設定には無理が多いが、名探偵の個性的なキャラクターと、良子という女性に甘美な魅力があって、面白く読んだ。
山崎洋子の『三階の魔女』も設定は抜群に面白いが、トリック、特に一人二役のトリックは非現実的で、この二つの作品をめぐって現代ミステリーのあり方が議論になった。
結局、ミステリーはただ面白ければいいというものではないのではないかという正統的な意見が多数を占めて、二つの作品は見送られ、結果的に受賞作が決まった。
船戸与一の『伝説なき地』は、前回の候補作『猛き箱舟』に比べると、率直にいって作品の質は落ちるが、私はこれまでの作品の氏の力量を加味して授賞に賛成した。
和久峻三の『雨月荘殺人事件』の裁判ファイル・ミステリーは、海外の捜査ファイル・ミステリーを踏まえて書いたもので、その形式そのものには新しさはないが、裁判ものでは前例がなく、また、後半の意外な展開にミステリーとしての魅力がある。
短編で受賞した小池真理子の『妻の女友達』は、設定に無理がなく、小説的な面白さがあって、直ぐに全員の意見が一致した。
評論部門で、評論家として教えられる所も多く、出来れば全部に賞を差し上げられればと思うほどだったが、何といっても、直井明の『87分署グラフィティ』が長年の研究成果の結晶で他を圧していた。マニアックな研究だが、前作の『87分署のキャレラ』よりも、よりマクベインの87分署シリーズの作品論としての分析が全面い出ていて立派な内容になっている。細部の追究も長年の滞米生活の体験者ならではのもので、敬服した。閉じる
- 辻真先[ 会員名簿 ]選考経過を見る
-
同業者の立場から他人の作品をあげつらう勇気がないので、ミステリーの長年の読者――という視点で、選ばせてもらっている。
選考基準は明快で、「おもしろけりゃ少しくらいの無理は許す」それだけだ。なにがおもしろいかおもしろくないか、こと細かに考えたらキリがないので、ただただ読み終えたとたんの気分に拠ることにしている。
その観点から、短編では『三階の魔女』を挙げた。無理はある、だがおもしろかったのだ、ぼくには。ぼくがまだテレビのプロデューサーだったら、ぜひとも映像化したいところだ。しかし他のみなさんには、無理が許容範囲を逸脱して見えたようだ。けっきょく『妻の女友達』に決まったのだが、長編(にも小池さんの候補作があった)とのかねあいで保留にしていたぼくも、短編らしい切れ味にうなったことはまぎれもないので賛成した。
評論は、好きな『ミステリ作家のたくらみ』に点を入れたかったが、惜しいことに寄せ集めの印象をぬぐえず、圧倒的な情報量と、徹底したこだわりに驚嘆させられた『87分署グラフィティ』に、軍配をあげた。
・・・とここまでトントン拍子にきたものの、長編部門にいたって、正直なところ委員一同顔を見合わせてしまった。
(もめるだろうな)
暗黙のうちに牽制しあったのに、結果としては、拍子ぬけするほど順調に決まった。
開口一番、胡桃沢氏が推薦作三本を挙げたおかげで、気が楽になったのだ。
そうだ、一本にしぼらなくても、複数授賞にすればいいんだ・・・というわけで、ぼくが選んだのは『伝説』『雨月荘』『異邦』の三作である。『ベルリン』は登場するキャラクターに愛着をおぼえて捨て難かったが、尻つぼみの感がふかく、涙を呑んであきらめた。
受賞作二本については、他の委員の方々が書かれると思うので、選に洩れた『異邦の騎士』についてひと言。たしかに無理はあろうが、鮮烈な仕掛け花火を仰いだような読後の印象を否定できなかったので、あえて推したが残念だった。
それにしても、今年の候補作は質量ともに充実していた。ミステリーは書くのも好きだが(当り前だ)、読むのも大好きだ。選を終えたいま、作者のみなさんに、ありがとうといわせていただこう。閉じる
- 都筑道夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
-
今回はいつになく、候補作が多かった。あたえられた紙数では、いちいちに感想はのべられそうもない。概観ということに、ならざるをえないだろう。
私は文章の好き嫌いが激しい上に、影響をうけやすいたちだから、義務がなければ、舌ざわりの荒い言葉がつづきだすと、すぐに本をとじてしまう。こんども投げだしたい作品が、だいぶあったけれど、仕事だから、ぜんぶ読んだ。そして、認識をあらたにした。
日本の推理小説の水準は、あがってきている。作家たちは、力をつけている。これはよろこばしい認識だったが、その力の質には、問題がある。腕力があって、筆力ではないのだ。女性作家までが、腕力で書いている。男女ともに、無理なストーリーを、腕力でねじふせて、小説にしている場合が多い。
長編小説を書くには、もともと腕力も必要だが、それ以上にイメージがいる。長丁場を持ちこたえるだけのイメージを、それぞれの作者は、いちおう持っているらしい。だが、自分の書いているイメージを、読者に適確につたえるには、筆力が必要だ。それが乏しいから、過去の日本をえがいても、現在の日本と見わけがつかない。外国のある地方から、別の地方に移っても、おなじところにいるように思える。
せっかく、おもしろいアイディアをとらえながら、すぐに易につく傾向があるのも、筆力不足が原因だろう。異常心理の物語がたちまち、ありふれた犯罪小説になってしまったりして、とかく包装が新しいわりに中身が古い。
昨年にくらべて、短編賞候補作が、圧縮した長編ばかりでないのは、うれしかった。長編とおなじで、イメージがつたわらなかったり、易きにつく古さはあっても、短編らしい短編がそろっていた。
こうした上むきの傾向は、各社がハードカヴァーの書きおろしに、力を入れたからにちがいない。りっぱな本になれば、作者も力を入れる。たとえ腕力でも、力がおとろえるよりは、増すほうがいい。長編らしい長編、短編らしい短編がどんどん出ていけば、やがては洗練されていくだろう。
筆力を具体的に説明すれば、複雑なことを明快につたえる話術と、作者の持つイメージを、そのまま読者の頭に浮かばせる描写力、といえようか。それが、洗練されたとき、生命の長い作品になる。閉じる
- 半村良[ 会員名簿 ]選考経過を見る
-
候補作の数の多さに驚いたが、読めば読むほどどの作品もそれぞれに趣があって面白く、楽しませてもらった。
そんな中で短編『妻の女友達』が多少の議論を経て受賞した。私も先ず小池さんをあげていたから異論はない。
長編では船戸与一氏の『伝説なき地』と和久峻三氏の『雨月荘殺人事件』が受賞した。船戸氏はかねてより私の贔屓作家だから、受賞はことのほか嬉しく、前回候補作より幾分緊密さに欠けるという指摘もあったが、パワーではこの作品の上に出るものはなかったように思う。読みながら、作中どれだけの人が死ぬか数えてみたのだが、私にはとうとう数え切れなかった。この分野は作品数が増えるにつれ、前方の壁がどんどん厚くなるものだが、それに対する船戸氏の飛越ぶりが今から楽しみだ。きっと精悍な跳躍姿勢を見せてくれるに違いない。
和久氏の作品はまさに労作で、版元の中央公論社へも併せて敬意を表します。ただし、どんでん返しがあるということすら、書くのをためらわねばならぬタイプの作品なので、これ以上触れるのは控えさせて頂く。
評論その他の部門では、『87分署グラフィティ』がさしたる問題もなく受賞した。これもまた正攻法で貫いた労作であるが、他の作品がこれより劣るという選択ではなく、執念に近い熱気を選考の諸氏が読み取った結果だろう。
いずれにせよ。みな大変に読み応えのある作品群だった。受賞なさった小池、和久、船戸、直井の諸氏には、心からお祝を申しあげます。閉じる
立会理事
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 長編部門
- 『あなたの知らないあなたの部屋』 青柳友子(桐村杏子)
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 長編部門
- 『プワゾンの匂う女』 小池真理子
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 長編部門
- 『ベルリン飛行指令』 佐々木譲
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 長編部門
- 『異邦の騎士』 島田荘司
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 長編部門
- 『切り裂きジャック・百年の孤独』 島田荘司