1989年 第42回 日本推理作家協会賞 評論その他の部門
受賞の言葉
推理小説が探偵小説だった頃から読み始めて四十数年、もっぱら読む側でしたが、読んだものをまとめてみようかと思いついて、好きなだけの時間をかけて、好きなように書いた“87分署グラフィティ”が推理作家協会賞をいただくことになり、まだ他人事のようで、実感が湧いて来ません。
高校時代から大学時代にかけて、何とか賞を獲得しようと焦っても手が届かず、賞のことなどすっかり忘れてしまっていたのに、受賞のお報せをいただき、望外の贅沢な気分を味わっております。マクベインの作品と言う偏った題材にもかかわらず、協会の皆様の目にとまり、評価を与えて下さったことは全く光栄です。
好きなだけ時間をかけて書くのは、当人には具合がよいが、まわりの人にはいつ完成するとも解らぬ仕事を果てしなく続けているようで、はた迷惑だったか。好きなようにやらせてくれた人たちに感謝します。
- 作家略歴
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1931.9.22~
東京都出身。東京外国語大学インド語学科。
昭和二九年より六二年までニチメン株式会社に勤務し、カラチ、ヒューストン、ブカレスト、ニューヨーク等に駐在。昭和二六年、別冊宝石一四号の新人コンクールに別名で投稿し佳作入選した短篇がデビュー作。代表作は『87分署グラフィティ・・エド・マクベインの世界』。趣味は映画。特技は貿易業務や経理業務。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 中島河太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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第四十二回日本推理作家協会賞の選考は、昭和六十三年一月一日より十二月三十一日までに刊行された長編、各雑誌の一月号から十二月号までに掲載された短編および連作短編集を対象として、例年通り昨年末から選考に着手した。
まず協会員をはじめ出版関係者など各方面にアンケートを求め、その回答結果を参考にして、長編四一五編、短編四九六編、連作短編集三七冊、評論その他の部門二十冊をそれぞれリスト・アップした。
これらの諸作品を協会より委嘱した部門別予選委員一四氏が選考に当たり、長編部門は十八編、短編部門は三六編、連作短編集部門は八編、評論その他の部門は三編を二次に残し、二月二十日、二十二日の両日、協会書記局で最終予選委員会を開催した。その結果、長編七編、短編五編、評論その他の部門三編の候補作が選出された。
本選考委員会は三月二十七日午後五時より、新橋第一ホテル新館・柏の間にて開催。胡桃沢耕史、権田萬治、辻真先、都筑道夫、半村良の五選考委員が出席、理事長中島河太郎が立会い理事として司会した。各部門ごとに活溌な意見が交わされ、慎重な審議が行なわれた。
その結果、各部門で別項のように授賞作が決定した。選考内容については各選考委員の選評を参照していただきたい。閉じる
選評
- 胡桃沢耕史[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今度の選考は実に大仕事であった。選考会ももうひと月に迫ったころ、どかっと、十一冊の単行本と、五篇の短篇が宅急便で届いた。もしこの中に四冊ばかり、事前に買ったり贈呈を受けたりして読了したものがなかったら、十日は徹夜続きで、選考会に飛びこまなければならないところだった。それだけに全委員、最初はかなり疲労の色も濃く、お互いに一歩も譲らぬという気迫で、緊張の中で議論は始まった。しかしほどなく推理小説に対する価値観が似ていて、エンターテインメントの何たるかを正しく理解している方々ばかりであったので、その挙げる作品は今回はことごとく全員が一致して、論争はなく、終始和やかに会議は進行した。
いいものはいいといえば簡単だが、珍しいほど平穏に、短かい時間で決定した。
審査は短編から始まった。小池真理子さんの『妻の女友達』がほぼ満票だった。他に『異人館の花嫁』と、『三階の魔女』も押す人がいたが、全員一致の声にならなかった。短編の価値は、その中の一ヵ所に思わず読者をドキンとさせるワナがあり、ヤラレターと降参する、鮮やかな切味を見させてくれればいい。
この点見事な作品で、小池さんの当選は当然である。
評論部門はぼくは書いたこともなしに読む力もないので先輩諸氏のご説に従い、よしとする作品に雷同して、一票を入れる。
さて長編だ。六人。その中で島田さんが、別な作品で二冊。船戸さんが一つの長編で、上・下二冊。六人合せてどかんと八冊。いずれも質量共に充実しきった作品でまさに若さ、気力共に今や人生の盛りの人々が、全身でぶっつけてきた物ばかりだ。必死で読んだ。はっきりいって、その全七作、他の時期に登場してきたらそれぞれ全部受賞作にしてもおかしくないものばかりだ。特に女の細腕でなく、女性作家の太腕の腕力には驚嘆した。みな虫も殺さぬ顔をした、美女ばかりなのに。いつからこんなにたくましくなったのだろう。怖しくなった。ご亭主でなくてよかった。
候補作が多ければ当選作も増やせと、中島理事に三作受賞を提案したが、慣例上無理だとのことで、和久・船戸、の両氏に決った。
いわば千代の富士に小錦が残った形だ。船戸さんのは前の方がいいと言う意見も出たが、そりゃー酷だ。前に落しておいて今更何をいうかだ。力作揃いの中で、やはり本気で相撲を取ったら、男の方が力が強かったという結果で、この受賞猛烈な競り合いの中での、力のぶっちぎり勝ちになった。小説の世界も怖しい時代になったものだが、それだけに将来が楽しみでもある。閉じる
- 権田萬治[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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本年度は候補作の数が例年になく多かっただけでなく、それぞれが読みごたえのある力作ぞろいだったので、選考が難航するものと思われたが、結果的には、それほどの異論もなく意見がまとまった。
私としては、事前に心の中で各部門の候補作を、長編は、島田荘司の『異邦の騎士』、船戸与一の『伝説なき地』、和久峻三の『雨月荘殺人事件』、短編は小池真理子の『妻の女友達』、山崎洋子の三階の魔女』、評論は『87分署グラフィティ――エド・マクベインの世界』に絞って臨んだ。
島田荘司の『異邦の騎士』は、名探偵御手洗潔の最初の事件を扱った作品である。記憶喪失者を利用する話で、設定には無理が多いが、名探偵の個性的なキャラクターと、良子という女性に甘美な魅力があって、面白く読んだ。
山崎洋子の『三階の魔女』も設定は抜群に面白いが、トリック、特に一人二役のトリックは非現実的で、この二つの作品をめぐって現代ミステリーのあり方が議論になった。
結局、ミステリーはただ面白ければいいというものではないのではないかという正統的な意見が多数を占めて、二つの作品は見送られ、結果的に受賞作が決まった。
船戸与一の『伝説なき地』は、前回の候補作『猛き箱舟』に比べると、率直にいって作品の質は落ちるが、私はこれまでの作品の氏の力量を加味して授賞に賛成した。
和久峻三の『雨月荘殺人事件』の裁判ファイル・ミステリーは、海外の捜査ファイル・ミステリーを踏まえて書いたもので、その形式そのものには新しさはないが、裁判ものでは前例がなく、また、後半の意外な展開にミステリーとしての魅力がある。
短編で受賞した小池真理子の『妻の女友達』は、設定に無理がなく、小説的な面白さがあって、直ぐに全員の意見が一致した。
評論部門で、評論家として教えられる所も多く、出来れば全部に賞を差し上げられればと思うほどだったが、何といっても、直井明の『87分署グラフィティ』が長年の研究成果の結晶で他を圧していた。マニアックな研究だが、前作の『87分署のキャレラ』よりも、よりマクベインの87分署シリーズの作品論としての分析が全面い出ていて立派な内容になっている。細部の追究も長年の滞米生活の体験者ならではのもので、敬服した。閉じる
- 辻真先[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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同業者の立場から他人の作品をあげつらう勇気がないので、ミステリーの長年の読者――という視点で、選ばせてもらっている。
選考基準は明快で、「おもしろけりゃ少しくらいの無理は許す」それだけだ。なにがおもしろいかおもしろくないか、こと細かに考えたらキリがないので、ただただ読み終えたとたんの気分に拠ることにしている。
その観点から、短編では『三階の魔女』を挙げた。無理はある、だがおもしろかったのだ、ぼくには。ぼくがまだテレビのプロデューサーだったら、ぜひとも映像化したいところだ。しかし他のみなさんには、無理が許容範囲を逸脱して見えたようだ。けっきょく『妻の女友達』に決まったのだが、長編(にも小池さんの候補作があった)とのかねあいで保留にしていたぼくも、短編らしい切れ味にうなったことはまぎれもないので賛成した。
評論は、好きな『ミステリ作家のたくらみ』に点を入れたかったが、惜しいことに寄せ集めの印象をぬぐえず、圧倒的な情報量と、徹底したこだわりに驚嘆させられた『87分署グラフィティ』に、軍配をあげた。
・・・とここまでトントン拍子にきたものの、長編部門にいたって、正直なところ委員一同顔を見合わせてしまった。
(もめるだろうな)
暗黙のうちに牽制しあったのに、結果としては、拍子ぬけするほど順調に決まった。
開口一番、胡桃沢氏が推薦作三本を挙げたおかげで、気が楽になったのだ。
そうだ、一本にしぼらなくても、複数授賞にすればいいんだ・・・というわけで、ぼくが選んだのは『伝説』『雨月荘』『異邦』の三作である。『ベルリン』は登場するキャラクターに愛着をおぼえて捨て難かったが、尻つぼみの感がふかく、涙を呑んであきらめた。
受賞作二本については、他の委員の方々が書かれると思うので、選に洩れた『異邦の騎士』についてひと言。たしかに無理はあろうが、鮮烈な仕掛け花火を仰いだような読後の印象を否定できなかったので、あえて推したが残念だった。
それにしても、今年の候補作は質量ともに充実していた。ミステリーは書くのも好きだが(当り前だ)、読むのも大好きだ。選を終えたいま、作者のみなさんに、ありがとうといわせていただこう。閉じる
- 都筑道夫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今回はいつになく、候補作が多かった。あたえられた紙数では、いちいちに感想はのべられそうもない。概観ということに、ならざるをえないだろう。
私は文章の好き嫌いが激しい上に、影響をうけやすいたちだから、義務がなければ、舌ざわりの荒い言葉がつづきだすと、すぐに本をとじてしまう。こんども投げだしたい作品が、だいぶあったけれど、仕事だから、ぜんぶ読んだ。そして、認識をあらたにした。
日本の推理小説の水準は、あがってきている。作家たちは、力をつけている。これはよろこばしい認識だったが、その力の質には、問題がある。腕力があって、筆力ではないのだ。女性作家までが、腕力で書いている。男女ともに、無理なストーリーを、腕力でねじふせて、小説にしている場合が多い。
長編小説を書くには、もともと腕力も必要だが、それ以上にイメージがいる。長丁場を持ちこたえるだけのイメージを、それぞれの作者は、いちおう持っているらしい。だが、自分の書いているイメージを、読者に適確につたえるには、筆力が必要だ。それが乏しいから、過去の日本をえがいても、現在の日本と見わけがつかない。外国のある地方から、別の地方に移っても、おなじところにいるように思える。
せっかく、おもしろいアイディアをとらえながら、すぐに易につく傾向があるのも、筆力不足が原因だろう。異常心理の物語がたちまち、ありふれた犯罪小説になってしまったりして、とかく包装が新しいわりに中身が古い。
昨年にくらべて、短編賞候補作が、圧縮した長編ばかりでないのは、うれしかった。長編とおなじで、イメージがつたわらなかったり、易きにつく古さはあっても、短編らしい短編がそろっていた。
こうした上むきの傾向は、各社がハードカヴァーの書きおろしに、力を入れたからにちがいない。りっぱな本になれば、作者も力を入れる。たとえ腕力でも、力がおとろえるよりは、増すほうがいい。長編らしい長編、短編らしい短編がどんどん出ていけば、やがては洗練されていくだろう。
筆力を具体的に説明すれば、複雑なことを明快につたえる話術と、作者の持つイメージを、そのまま読者の頭に浮かばせる描写力、といえようか。それが、洗練されたとき、生命の長い作品になる。閉じる
- 半村良[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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候補作の数の多さに驚いたが、読めば読むほどどの作品もそれぞれに趣があって面白く、楽しませてもらった。
そんな中で短編『妻の女友達』が多少の議論を経て受賞した。私も先ず小池さんをあげていたから異論はない。
長編では船戸与一氏の『伝説なき地』と和久峻三氏の『雨月荘殺人事件』が受賞した。船戸氏はかねてより私の贔屓作家だから、受賞はことのほか嬉しく、前回候補作より幾分緊密さに欠けるという指摘もあったが、パワーではこの作品の上に出るものはなかったように思う。読みながら、作中どれだけの人が死ぬか数えてみたのだが、私にはとうとう数え切れなかった。この分野は作品数が増えるにつれ、前方の壁がどんどん厚くなるものだが、それに対する船戸氏の飛越ぶりが今から楽しみだ。きっと精悍な跳躍姿勢を見せてくれるに違いない。
和久氏の作品はまさに労作で、版元の中央公論社へも併せて敬意を表します。ただし、どんでん返しがあるということすら、書くのをためらわねばならぬタイプの作品なので、これ以上触れるのは控えさせて頂く。
評論その他の部門では、『87分署グラフィティ』がさしたる問題もなく受賞した。これもまた正攻法で貫いた労作であるが、他の作品がこれより劣るという選択ではなく、執念に近い熱気を選考の諸氏が読み取った結果だろう。
いずれにせよ。みな大変に読み応えのある作品群だった。受賞なさった小池、和久、船戸、直井の諸氏には、心からお祝を申しあげます。閉じる
立会理事
選考委員
予選委員
- 加納一朗
- 武蔵野次郎
候補作
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 評論その他の部門
- 『ミステリー風味のロンドン案内』 西尾忠久
- [ 候補 ]第42回 日本推理作家協会賞 評論その他の部門
- 『ミステリ作家のたくらみ』 松田道弘