2007年 第60回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
受賞の言葉
読み始めたらおもしろくって止まらなくて、読み終わってもなかなか現実世界に戻ってこられない。興奮したまま、気づいたら家族や友達に薦めたり、同じ本を読んだ人をみつけて感想を言いあっていた。その本を読んだせいで楽しくて、切なくて、飛び跳ねたいような気分がずっと続いている……。そんな、強烈な魔力のあるエンターテイメント小説が大好きでした。いつか自分でもそういうすごいのを書きたいなぁ、と子供の頃、こっそり考えていました。
その遠い理想を思いだし、今の自分にどこまでできるかわからないけれど、全力でやってみよう、と考えてこの『赤朽葉家の伝説』を書きました。今回の受賞はとても光栄で、また、記者会見の席で選考委員の先生のお言葉を聞いたとき、がんばって投げたつたないボールを、諸先輩方におおきなミットでがっしり受けとめてもらったような気がして、ほんとうにうれしくなり、そのあと安堵しました。
これまでもたくさんの方にお世話になりました。賞の名に恥じないように、ご期待に沿えるように、これからもいっそう精進しようと思います。みなさまありがとうございました。
- 作家略歴
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代表作:
「赤朽葉家の伝説」
「少女七竈と七人の可愛そうな大人」
「青年のための読書クラブ」
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」など
趣味:読書
特技:極真空手初段
2008年『私の男』にて第138回直木賞を受賞。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 北村薫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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最初に各委員が、候補作品すべてについて五段階で評価を行った。その結果、『赤朽葉家の伝説』のみが飛び抜けた点数を得た。つぎに対象を数作にまで絞り込むべく、個々に検討した。その段階で『七姫幻想』について支持しかねるという意見が多く、これが脱落した。『赤朽葉家の伝説』は、四人が最高点、うち三人の委員が満点をつけるという状態で、あまりにも突出しているため、ここですぐ受賞作として適切か否かの論議となった。もっとも大きな論点は、「ミステリとして優れているのかどうか」というところにあった。その意味での弱さがなくはないが、ほとんどの委員が、圧倒的な小説の力を前にし、「これ以外にない。これを落とすことは考えられない」という意見だった。したがって、これを受賞作と決定し、次に、もう一作を合わせて出すかの検討に入った。『ピース』を一位とした委員が一人いたが、文章力や人物造形の巧みさは認めるものの、動機の問題などに難色を示す意見が過半数を超えた。『トーキョー・プリズン』、『ぼくのメジャー・スプーン』についても、積極的に推す声はなかった。結局、『赤朽葉家の伝説』独走という点数からいっても、一作のみの受賞が妥当という結論になった。閉じる
選評
- 菅浩江[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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「赤朽葉家の伝説」
圧倒的な語りの力がありました。読書の愉悦が味わえる本です。舞台となる「だんだんの世界」も魅力的で、異世界モノの雰囲気もあります。特に第二部の勢いは目も眩みそうなほど。作者自身の書く楽しみが読者にも伝わる、幸福な例だと思いました。
ただ、せっかくの「浮遊する片目の男」が活きてこなかった。第一部ではほとんど忘れ去られたような扱いで、通奏低音が途切れてしまったもったいなさが残ります。
第三部も、いくら「何もない平成」の象徴であるとしても、あまりにも何もなさすぎたと思います。片目の男の棚上げで謎解きも唐突な感が免れず、女三代記としてビューティフルワールドを謳いあげるというテーマも、いまひとつ描ききれたとは感じない。読後の満足度が読書中の快楽に負けた気がしました。
このように、私は積極的に推しませんでしたが、ミステリ的な牽引力不足も「質が拮抗していれば、ミステリか否かが論点にもなるだろうが(馳委員)」とまで言わしめたこの本は、確かに読書の根本である読む愉しみに満ちており、授賞に否はありませんでした。
「ピース」
私が最高点を付けたのはこれでした。無邪気が人を深く傷つけ、常識は個々人の必然に蓋をしてしまう。どこに悲しみをぶつければいいのか判らないモヤモヤ感が、登場人物たちそれぞれの謎めきと巧く呼応し、興味深い浮遊感を醸し出していたと思います。ミステリとしての構成も王道すぎるほど王道。ですが、動機の点で他の委員さんたちの首肯を得られず、異論の内容ももっともだったので、意見を引き取りました。
「トーキョー・プリズン」
読み応えもあり、手堅い作品だと思いました。一読に値するけれど、戦争モノで狂気の時代に触れる持って行き方は、正直、食傷気味でもありました。依頼された事件に関わってから主人公の当初の目的がかすみすぎたのも、終盤の展開が乱暴だったのも、気になったところです。他の委員からは、史実(資料)を物語へ昇華する際の取捨選択が都合よすぎる、との意見もありました。
「ぼくのメジャースプーン」
優等生好きの私はとても期待して読んだのですが、いかんせん甘すぎます。動物園のシーンは必要だったのでしょうか? 一番のがっかりは、主人公が犯人に与えた言葉が、優等生だったらこれしかないだろう、と予想できてしまったことでした。
「七姫幻想」
やりたいことは十二分に判るけれど、読者に伝えるには不親切な書き方だったと思います。賢淵伝説、清少納言、お三輪の苧環(おだまき)など、知っている人だけニヤッてしてね、という姿勢は、読んでいてどうも気持ちが悪いのです。なぜ伝説が綴られるのか、というラストも説得力を感じませんでした。閉じる
- 野崎六助[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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六十回の節目というわけでもないだろうが、現代ミステリの可能性と困難をまざまざと見せつけられる思いだった。選考過程、結果すべてを通しての体験だ。
候補五作品とも、ミステリという制約の多いジャンルのなかで、一定の挑戦を試み、程度の差こそあれ、華々しい成功には到っていない。失敗と評価せざるをえない作品も中にはあった。失敗の跡が歴然としている作品を俎上にのせることは、選考委員の仕事はいえ、いささか気の重い任務だった。挑戦には失敗はつきものだが、ミステリの場合、その痕跡は一般小説よりもいっそう無残な形を残すからだ。
挑戦意欲の高さでみれば、『ピース』と『トーキョー・プリズン』が他を抜いている。『ぼくのメジャースプーン』と『七姫幻想』とは、意欲の点はともかく、ミステリとしては凡庸にとどまっている。『ぼくのメジャースプーン』は比較的まとまりがいいけれど、それは作者が一定の読者層のみを狙って陣地防衛に努めている結果だろう。計算が過ぎて飛翔を妨げている。『七姫幻想』は、物語る女のサガという切り札を行使したところが『赤朽葉家の伝説』と共通するが、小説としての器において大きな差が出た。連作という作りなのに、全体が連鎖性をかちとるには到らず、ただ同じ質感の短編集に終わってしまった。
残念ながら『ピース』には、わたしは共感できなかった。バラバラ殺人の断片ピースと軽いVサインのピースを引っかけたコンセプトは当たりだし、現在形止めの多用によって怠惰感をかもす方法も効果的だろう。しかし作者が最終的にどんな世界を示そうとしているのかが掴みがたかった。とくに、最終章のマインド・コントロールの扱いには、首をひねる。
その点、『トーキョー・プリズン』の意図は了解しやすかった。奇抜な設定にミステリの醍醐味を生かそうとする、この作者の持ち味がよく出ている。BC級戦犯の不条理な悲劇という重く厄介な題材をまとめきった努力は買いたい。しかしその分、肝心の謎解きの展開がずいぶん窮屈になってしまった。
さて結果的に『赤朽葉家の伝説』が、物語の豊饒さで組み伏せてくる力において圧倒的な支持を受けた。ほぼ満場一致である。もちろん、三代の女の物語のうち、第三部現在篇の女、「失われた十年」に育った語り手のパーツが弱い、そこがミステリとしてイージーで物足りない、という意見も有力だった。しかし改めて考えれば、祖母の未来透視に「飛ぶ男」が現われたという冒頭の一行の華麗さ、そのダブル・ミーニングの仕掛けは、何をおいても素晴らしいミステリの幕開けといえる。「飛ぶ男はマジック・リアリズムの世界にいるが、彼がじつは「堕ちる男」であったと解明される時、冒頭の一行の豊かな含意はミステリ的な世界に着地するのだ。閉じる
- 馳星周[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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これしかあるまいという思いを秘めて選考会に臨んだ。今年の候補作五作品の中で、どれよりもぬきんでていたのは『赤朽葉家の伝説』だった。三代にわたる女性に託した、昭和、バブル期、平成の日本を語ろうという企み、リーダビリティ、生き生きとしたキャラクタ、どの項目をとっても、この小説に迫る作品はなかった。
難点をひとつだけあげるとすれば、それはこの小説がミステリであるかどうか――そこに尽きるのだが、小説としての完成度の高さが、なにものをも凌駕するとわたしは考えた。ミステリもまた、小説でしかない。
今回、この作品の受賞は必然だったと考える。
『ピース』は達者の手による達者な作品だ。しかし、この達者の筆がミステリに向いているとは思えない。ミステリに絡む部分はどこか窮屈で、不自然だ。それ以外の描写が冴え渡っているだけに、この落差が目立った。この動機で連続殺人が起こるなら、世のミステリ作家が頭を悩ませているのは徒労にすぎないではないか。推すことは難しい。市場原理が働くと難しいのだろうが、個人的には、この作者にはミステリ以外の小説を書いてもらいたいし、読みたいと思う。
『七姫幻想』は端正な作品である。だが、それだけという言い方もできる。古代日本に関する情報小説としては面白かったが、年代が下がるにつれてその面白さも薄れていってしまった。
『僕のメジャースプーン』は今の流行なのだろうが、書く側は癒そうと躍起になり、また、この手の小説を求める読者は癒されそうと躍起になる。なんのために小説家を志し、なんのために小説を読むのか。この小説のあり方は現代を考察する上では貴重なサンプルになりうる。しかし、現実との向き合い、その胸ぐらを揺さぶることに血道を上げている創作者としては、この小説にはなんの感銘も受けない。今時、こんな小学生がいるのか? いる、と答えられたら、わたしは苦笑する他ない。
『トーキョー・プリズン』は人に期待して読み始め、期待を裏切られた思いで本を閉じた。題材とそれに取り組む作者の姿勢は正しいのに、すべてが荒すぎる。戦後の風俗小説としても、本格ミステリとしても、メタ小説としても、相棒小説としても、中途半端だった。自らと自らの仕事に多くを望みすぎるのではないだろうか。
『赤朽葉家の伝説』はぬきんでていた。言い換えれば、ほかの作品が弱すぎたということでもある。受賞作はたとえ今回の選考でなくても、受賞しただろう。それだけの力を備えていた。だからこそ、この作品に肉薄する小説の出現が望まれた。和気藹々とした選考会もいいが、たまには白熱した議論を交わしたいとも思う。今回で長編賞の選考は終わりだが、少々、悔いは残る。閉じる
- 福井晴敏[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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初選考です。究極、物事の価値判断は好き嫌いで決定されがちなので、まずは作者の意図を汲み取るように努め、それが作中においてどれだけ達成されているかを判断基準としました。
そうして、およそ己の趣味を封じて望んだ選考だったのですが、達成度が高い上に、趣味にもぴったりという作品に出会える幸運に恵まれました。受賞作『赤朽葉家の伝説』がそれです。
祖母、母、そして語り手であるわたしの三代にわたる鉄鋼一族の物語ですが、この要約の仕方では本作の魅力を説明したことにはなりません。大河ロマンという言い方も違うし、その要素はあってもミステリーでもない。強いて言うなら、血をたどることで世界をたどり、過去から未来に至る時間軸の中に現在が在る、という普遍的事実を再確認する物語と言えましょうが、未読の方にはなんのことやらでしょう。その意味では、現代書籍市場ではセールスがしにくい、という宿命を持った作品でもあります。
なにより、推理作家協会賞という、ミステリーを主眼とする賞に該当する作品か? との疑問も呈されたのですが、作品自体が持つ無二のパワーに鑑みて、そんなことは瑣末な問題と判断しました。今次受賞をきっかけに、ひとりでも多くの読者の目に触れることを切に願います。力のある作り手には「これを書くために作家になった、いや生まれてきた」と言える著作との“出会い”があるものですが、本作は桜庭一樹という作り手にとってその一本になると確信します。過去も未来も失った平成の人間に手向けられたエールかもしれない、という意味では、時代の要請で生まれた作品とも言えるでしょう。さまざまな受け取り方ができる作品なので、未読の方はぜひ。
その他の候補作については、プロの書いた作品ですから「力及ばず」という表現は当たりません。意図したことを達成する技術も全員がお持ちですが、その着想を長編小説に編むという方法論が正しかったか? と疑える作品がひとつならず存在していたことも事実でした。これは編集者の責任でもあります。
すなわち、テキスト量を半分に減らして、大人向けの上装版絵本に仕立てた方が波及力があろうと思える作品や、少し険を削って小学校の課題図書選定を狙った方がよかろう、と思える作品があったのです。また、十年一日の装丁が作品を古びたものに見せてしまっている例もありました。
現在の出版不況は一過性のものではありません。売る努力、それも良作を売る努力を絶えず仕掛けていかなければ、次の十年はないという時代に来ています。せっかくの才能を埋もれさせぬためにも、編集者はルーチンワークやセクショナリズムにとらわれず、最適の方法で作品をプロデュースする方法を考えてもらいたい。それが今次選考でもっとも痛切に感じたことでした。閉じる
- 山田正紀[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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『赤朽葉家の伝説』を受賞作に推すつもりで選考会にのぞんだ。なにしろ読みはじめたら最後まで一気に読み通さずにはいられない作品で、その優れたリーダビリティには敬意を表さざるをえない。この作者の代表作になる作品であると思う。
前回の選考では二本同時受賞にするかどうかで最後まで論議がもつれたが、今回は「赤朽葉家の伝説」一本を受賞作にすることにかんたんに決まった。それだけ「赤朽葉家の伝説」に勢いと力があったということで、選考委員の間でもほとんど異論が出なかった。
ただ一つ問題があるとしたら、はたして「赤朽葉家の伝説」という作品に推理作家協会賞を受けるに値するほどのミステリー的な要素があるのかどうか、ということだろう。
じつのところ、「赤朽葉家の伝説」にミステリー的な要素はとぼしい、と言わざるをえない。候補作にあがってきた時点で、その問題はすでにクリアされている、と突っぱねたいところだが、それを言ったのではそもそも選考にならない。これをどうしたらいいのか、とひとり勝手に考え込むほどに、「赤朽葉家の伝説」を気にいってしまった。
むろん、これをミステリーだと強弁することはできる。「赤朽葉家の伝説」は明らかにガルシア・マルケスやイサベル・アジェンデなどの中南米のマジック・リアリズムに影響を受けている。冒頭に登場してきた「空を飛ぶ男」など、まさにそうした小説に出てきそうなキャラクターで、既視感すら覚えるほどである。
けれども「赤朽葉家の伝説」においては、読者にマジック・リアリズムに特有の反リアリズム的な登場人物と思わせておいて、そのじつ最後にいたって、それに一応の合理的な解決がつけられる作りになっている。これこそミステリーそのものではないか、と強弁するつもりでいたのだが、これはわれながらいかにも苦しい。第一、作者はそんなことは微塵も考えていない。
いよいよとなったら、「赤朽葉家の伝説」は「世界とは何なのか」を解き明かすミステリーなのだ、と言い張るつもりでいたが、ここまでくると「ひいきの引き倒し」というもので正気の沙汰ではない。
だが、幸いなことに、他の選考委員からも「赤朽葉家の伝説」がはたして推理作家協会賞を受賞するのにふさわしい作品であるかどうか、という疑問はほとんど提示されなかった。たぶん「赤朽葉家の伝説」は人から愛される小説なのだろう、と思う。その一点をもってしても十分に推理作家協会賞を受賞するのに値する作品ではないだろうか。
誤解しないでいただきたいのだが、ここで他の候補作に触れないのは何もそれらを軽視してのことではない。いずれも意欲作、力作で、それだけにこの限られた枚数で、受賞を逸した理由を述べるのは舌足らずな印象を与えることになりかねない。かえって失礼なことになってしまう。それを恐れてのことだとご理解いただきたい。閉じる