2002年 第48回 江戸川乱歩賞
受賞の言葉
小説を書いていると、右肩の斜めうしろ辺りに、ふと何かがとり憑いたと感じられる瞬間があります。
もちろんごく稀なことで、後から考えればたまたま集中力が高まった結果、時間の経過を速く感じただけだと考えるほうが、理にはかなうのかもしれません。
ある日それを、物の怪と名付けてみました。
物の怪、つまり物語の怪物が乗り移った状態であると、自分勝手に解釈することにしたのです。もっとも、文章がとめどもなく溢れ出て止まらないとか、天から何かが降りてきて勝手にキーボードを叩いたというような、幸福な状態のことではありません。
書き付け、考え、削り、さらに書く。単純でいながら思うに任せぬ作業の中で、自分がいま、いったいどの辺にいるかも判然としない状態がつづきました。何かが背中を押してくれていると信じ込むことで、揺れ動く気持ちを励まそうとしていたのかもしれません。
人の感覚を刺激する娯楽には、事欠かない世の中です。けれど、何でもあるからこそ、言葉だけの世界に執着したい。小説という、一見ストイックな分野に関わっていきたい。
肝は決まりました。
願わくは、物語の怪物が生涯、この背中にとり憑きつづけてくれますように。
- 作家略歴
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1959.5.28~
明治大学商学部卒
仙台市内の広告制作会社勤務を経て独立、フリーランスコピーライター。
代表作:「滅びのモノクローム」「死水」(共に講談社刊)
趣味・特技等:
渓流のフライフィッシングに手を染めて十数年、技術的な上達もままならず、釣果もあがらないにもかかわらず、何故か川へ通い続ける日々。他にはテニス、サッカーなどを少々。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度乱歩賞は、一月末の締切りまでに応募総数三三〇編が集まり、予選委員(小椰治宣、香山二三郎、新保博久、千街晶之、豊崎由美、吉野仁の六氏)により最終的に左記の候補作五編が選出された。
<候補作>
亡兆のモノクローム 三浦明博
境界 永見功平
Lost Moment 佐藤 仁
ボッサ・ファミリア 廣島節也
未還 萩原 昇
この五編を五月二十二日(水)、「福田家」において、選考委員・赤川次郎、逢坂剛、北方謙三、北村薫、宮部みゆきの五氏(五十音順)の出席のもとに、慎重なる審議の結果、三浦明博氏の「亡兆のモノクローム」に決定。授賞式は九月十七日(火)午後六時より帝国ホテルにて行われる。閉じる
選評
- 赤川次郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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文句なしに推せる作品は、残念ながら見当らなかったが、その中で「滅びのモノクローム」は前回に続き釣りをモチーフにしながら、そこから事件へとつなげて行く辺りが自然で、小説として魅力あるものになっていた。手直しが必要な箇所はあるが、受賞作として異存はない。
今後、作家としてやっていくには、読者が共感でき、感情移入できる魅力的な主人公を創造する力が必要だ。エンタテインメントである以上、たとえ悲劇でも、爽やかな読後感を残すように心がけてほしい。
他の四作品は、どれも部分的訂正では救い切れない問題点を抱えていた。
中では、「ボッサ・ファミリア」が、楽曲の著作権という面白いテーマを取り上げて、一応スラスラと読めたが、ところどころ、本当に音楽業界に通じているのか、首をかしげる所がある。必ずしも事実通りである必要はないが、読み手を納得させる力量がなくてはならない。それに、ミステリ的な要素が浮き上がっていて、興味をかき立ててくれない。
「Lost Moment」は、前半、風俗産業の日常性をうまく描いているのだが、後半に至って突然アクションものになってしまうのが、いくら何でも唐突である。それに、女の子たちの描き分けが充分にできていないので、読んでいて混乱する。
「境界」には、一種フランスミステリの雰囲気に似た、ふしぎな味がある。視点の移動、時間軸の操作、事実と創作の二重構造など、工夫はこらしてあるが、これを完成度の高い作品に仕上げるには、相当の腕前が必要だ。ここでは単に読者を悩ませるだけで終わっている。
「未還」は小説というより、著者の演説を聞かされているようだ。こういうひとりよがりの危機感こそ危険であることを、謙虚に歴史から学んでほしい。閉じる
- 逢坂剛[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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『滅びのモノクローム』は、前々回も候補になった人の作品で、やはり釣り道具を重要なキーに使っている。わたしの第一印象は、二年の間にずいぶん腕を上げたな、というものだった。文章はしっかりしているし、視点の乱れもさほど気にならない。会話のテンポも悪くない。ただ、逆に少々けれんがなさすぎて、華やかさに欠けるのが弱点だろう。それにしても、広告業界、政界、太平洋戦争、特高警察、個人情報保護法など、いろいろな素材をぜいたくに盛り込んで、一つの世界を構築する腕は評価してよい。分かりにくいタイトルも含めて、小さな不満がないではないが、ほぼ全員一致の授賞はみごとだった。
『境界』は、全体に読点の少ない癖のある文章だが、どの視点で書かれる場合も同じスタイルのため、単調になってしまった。記憶喪失ものは、すでに手垢がついたテーマでもあるし、それを二度経験するところに工夫を見せたようだが、こうした医学的裏付けのない扱い方は、説得力が乏しい。途中で出てくる登場人物のメモなるものは、いわば作者の構想メモそのものであって、むしろ興をそがれる。もう少し人間関係を整理して、分かりやすく書いてみればよかった。
『Lost Moment』は前半三分の二くらいまで、フーゾクの世界を活写した業界小説として、おもしろく読ませてもらった。高校生の女の子が、妙にむずかしい言葉を遣う不自然さをのぞけば、会話も生きいきしていて悪くない。ただ、後半三分の一で突然主人公がスーパーマンになり、西部劇そこのけの撃ち合いを始めるのには、唖然とした。作者が、なぜそのような展開に持っていたのか分からないが、前半の基調を崩さずに書いていたら、十分受賞圏内にあったと思う。再度挑戦してほしい。
『ボッサ・ファミリア』の作者も、前回音楽業界もので候補に残っている。しかしこちらは、前作と同様キャラクターにもう一つ魅力がなく、スタンスがはっきりしない。ことに主人公の、別れた妻や現在の恋人に対する気持ちが、あまりに簡単に揺れ過ぎるので、感情移入できない。ホモ、レズの扱いも取ってつけたようで、説得力に欠ける。音楽業界ものにこだわるのをやめて、キャラクターの造形に力点を注いでほしい。
『未還』は、視点の乱れが気になって、小説に集中できない憾みがある。名前は変えてあるが、これは一種のモデル小説の域を出ない。そうした知名人に寄りかかる小説は、よほどのことがないと成功しない。キャラクターを作る才能はあるし、現代史に対する興味も強いと思われるので、モデル小説でないものを読ませてもらいたい。閉じる
- 北方謙三[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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小説の、なにが心を動かすのか、いまだによくわからない。だからせっせと模索しながら書き続けているわけだが、これが読むということになれば、なぜなのかという分析などなしに、ただただ心を揺り動かされたりするのだ。この状態にあるかどうかが、選考の場合の、最初の大きな要素になる。
「未還」は、筆力はあるが、既成のものに寄りかかりすぎである。イメージの喚起力がきわめて限定され、方法としては難しいものだろう。小説の迫真力が何かを、もう一度問い直して欲しいと思う。
「ボッサ・ファミリア」は人間関係が錯綜しすぎていて、その説明に手間をかけすぎた。あれもこれもという書き方が謎を複雑にしているだけで、小説の魅力ある謎ではない。整理する方法を持ち、物語に芯を通す要領を覚えれば、いい作品が期待できる。
「Lost Moment」は全体に深刻にならず、軽く書き上げていた。途中からの殺し合いのドタバタは、物語を収束させるエネルギーの不足を、露呈している。苦しいところでこそ、じっと耐え、抑制すること。ソープ嬢の生活感覚など、よく書けているので、惜しいなと舌打ちをしたぞ。
「境界」は、後味が悪い。作者が、一番面白がっているのではないか。ひとりとして、好感の持てる人物が出てこない。発想は独創的だが、二度の記憶喪失などやりすぎだろう。小説の豊かさとは、なんだろう。それを、この作者には、第一に考えて欲しい。
受賞作は、緊密で抑制が利いていた。人間の過去という大きな命題を、淡々と描きあげることに成功している。受賞にふさわしい作品だった。登場人物も、鮮やかに立ち上がり、悪役であろうと、胸が痛くなるような存在感を示す。陥りがちな、予定調和で終わらず、過去の残酷さをしっかり描くことで、読者へのメッセージさえも感じた。今後大きく羽ばたいてもらいたい。閉じる
- 北村薫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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残念ながら今回の候補作全体の水準は、例年を下回るものだった。
そういう中にあって、『滅びのモノクローム』の安定した筆致、小道具としての釣り用リールの扱い方などが印象に残った。魅力的な個性は、手慣れた技巧以上に尊いものである。この作者における釣りへの愛がそれである。時を越えて、奥日光中禅寺湖畔の釣りの映像が浮かび上がって来る場面など、一読忘れ難い。その一方で、気になるところもあった。例えば、糾弾の場を伊波主催の政治集会としたことである。弁当つきで大型バスで送り込まれて来る支持者に囲まれている筈だ。理非にかかわらず最初の一言を言っただけでつまみ出されるだろう。それなのに、さしたる抵抗も受けず延々とクライマックスを作らんがための発言が続く。受け入れ難い。もっとも、こういう点は簡単に変更可能であり、作品評価に大きな影響は与えないと判断し、この作を推した。
『Lost Moment』は前半、失踪した人物を探すという、ありふれた筋立てであるのに、風俗関係という舞台上に個性的な人物を動かし、あきさせなかった。巧みな台詞もあり、捨て難い味を持っていた。ところが、後半の活劇調の殺人場面になって、それが崩れてしまった。また、一人称は、言葉遣いそのものが語り手の描写である。女子高校生がどれほど古めかしい言葉を操っても構わないのだが、そういう特別な女の子だと読者に納得させるような作りになっていなかった。勇次が銃器にいつから関心を持ち、どのようにしてその扱いを身につけたか――についても同じことがいえる。そういうところで物語が薄くなってしまった。
『ボッサ・ファミリア』は、ミステリが好きなことがよく分かる。『境界』は、風変わりな独自の世界を構築しており、『未還』からは、この物語を書かねばという熱が感じられたが、いずれも受賞作には及ばなかった。閉じる
- 宮部みゆき[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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受賞作『滅びのモノクローム』は、日本という国が懐深く隠し持ち、表向きは存在しないふりをしている“過去の傷”について、誠実に描いた作品だと思います。前々年にもやはり最終選考に残り、惜しくも落選した『カーティス・クリークの畔で』と同じく、作者の“釣りを愛する人びと”に向ける信頼と愛情も快いものでした。作中で描かれている人間関係や事実関係には、一度きちんとした整理が必要だと思いますが、「辰巳」という人物の描き方は、たいへん鮮やかでした。
今回、候補作の多くに共通して、「徒に物語を複雑にし過ぎ、それを保たせるために、登場人物たちに余計な煩悶を与えている」という弱点を感じました。良質のミステリーにするためには、謎を形成する「動機」と「経緯」の、双方が等しく複雑でなければならない――などということはありません。そう思い込んでしまうと、なかなか抜け出しにくい落とし穴に落ちてしまうでしょう。
でも実は、これを避けるのは造作もないことであるはずなのです。作者がいったん作り手の席を離れ、自身で創造した登場人物の側に立って考えてみればいいのですから。登場人物たちは、作者が組み立てている物語をすべて知っているわけではありません。あくまでも、作者に与えられた人格と背景の範囲内で生き、考え、企み、善にも悪にも行動するのです。入り組んだ動機を持たせたり、手順のかかる行動をさせたいと思うならば、登場人物が物語中で自然にそうするように、自発的にそう考えそう行動して無理のないように、作者の側で設定してあげる必要があります。それをしなければ、作者が結末にどれほど胸のすくような解決と熱い感動を用意していようとも、登場人物たちはそこまで到達することができなくなります。
応募作を創りあげる過程で、どうぞ、一度クールダウンして、それを考えてみていただきたいと思います。閉じる
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第48回 江戸川乱歩賞
- 『境界』 永見功平
- [ 候補 ]第48回 江戸川乱歩賞
- 『Lost Moment』 佐藤仁
- [ 候補 ]第48回 江戸川乱歩賞
- 『ポッサ・ファミリア』 廣島節也
- [ 候補 ]第48回 江戸川乱歩賞
- 『未還』 荻原昇