2015年 第61回 江戸川乱歩賞
受賞の言葉
最初の読書は小学生の頃、姉が持っていた有栖川有栖先生のデビュー作『月光ゲーム』でした。
強烈に覚えているのはクリスティの『アクロイド殺し』。夕飯前、真相部分でたまらず叫び、台所の母親に心配されました。
母の不安は、あながち的外れではなかったようです。
その時、私の深いところに「驚き」への畏怖と憧れがはっきり刻み込まれてしまったのですから。この爪痕は年々形を変えつつも、依然として私の持病であり続けています。
推理小説を書こう、と思い立ってからおよそ七年。わずかでも評価を頂けるようになったのはこの三年ほど。初めの四年は、何もなし。アルバイトをしながら、微塵も手応えのない日々を、よくもまあ過ごせたものだと、我ながら感心します。同時に、こんな生き方にうすら寒くもなります。
やっぱり私は、あの夕暮れ時、部屋で一人活字を追い、魂の奥の奥の、もっとも柔らかなところを病んでしまったのでしょう。
「道徳の時間」に目を通して下さった選考委員をはじめとする皆様には、心より感謝申し上げます。身に余る評価に、筆舌に尽し難い喜びと、幾ばくかの恐怖を感じております。乱歩賞の名に負けぬよう、精進して参ります。
ほとんど生活破綻者だった憐れな男に、惜しみなくパンを分け与えてくれた友人たち。君たちがいなければ、ここに辿り着く前に野たれ死んでいたに違いない。ありがとう。
素敵な《毒》を盛ってくれた姉と、この病を寛大にも放置してくれた家族に。
もしかしたらいるかもしれない、私の作品で不治の病を発症する、あなたに。どうか、楽しんで下さい。
- 作家略歴
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2018年『白い衝動』にて第20回大藪春彦賞を受賞
2020年『スワン』にて第41回吉川英治文学新人賞と第73回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門を受賞
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度江戸川乱歩賞は、一月末の締切までに応募総数三一六編が集まり、予選委員(石井千湖、円堂都司昭、川出正樹、末國善己、羽住典子、三橋暁、吉野仁)により最終的に左記の候補作五編が選出された。去る四月三日(金)午後四時より、講談社会議室で行われた。
〈候補作〉
道徳の時間 呉 勝浩
白碑 拓見 享
強き者よ、汝の名は女なり 春畑 行成
セイレーンの慟哭 一ツ木佑輔
反魂 和久井清水
この五編を五月十八日(月)午後四時より帝国ホテルにおいて、選考委員の有栖川有栖、池井戸潤、石田衣良、今野敏、辻村深月の五氏による協議の結果、呉 勝浩氏の「道徳の時間」を本年度の江戸川乱歩賞と決定した。授賞式は九月十日(木)午後六時より帝国ホテルにて行われる。閉じる
選評
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選評
ミステリとしての面白さで『道徳の時間』が他を圧していると思ったのだが、なかなか厄介な難もあって、選考会は長時間に及んだ。討議の末、文章や設定の不備について修正を施した上での受賞という結果になった。
十三年前、衆人環視の中で講演中の人物が刺殺される。逮捕された男が動機について「これは道徳の問題なのです」としか語らないことだけが謎だった事件。そのドキュメント映画作成の過程で、真相は少しずつ揺らぎだし、陶芸家の不可解な死や悪質なイタズラの頻発という現在の事件に、映画作りに加わった主人公は苦悩する。
ミステリにぜひとも欲しいのは、「思わず身を乗り出すような謎」だ。ことさら奇想天外な事件でなくてもよいから、「どういうことなのか、答えが知りたい」という興味を強く喚起してもらいたい。『道徳の時間』に描かれているのはそんな謎で、真相に迫っていく面白さも充分備わっていたし、変種の法廷推理ものの趣があってユニークである。新しい才能の登場を感じた。
前述の「厄介な難」には、デリケートな人権上の問題を含んでいる。修正してから出版という判断をどうか諒とされたい。プロ作家の原稿にも編集者のチェックが入るのが常で、新人賞の投稿作品には手直しが入るのは避けられないものだ。「完成度が高くて、無傷で無難」という作品を選ぶのが新人賞の目的ではない。
大胆な結末の説得力とリアリティについても論議の的となったが、読み終えて時間が経つほどに思う。これもまた虚構が描くべき生々しい現代のリアルではないか、と。作者・呉さんの今後に大いに期待する。
他の候補作について。
尾崎紅葉、泉鏡花(鏡太郎)を登場させた『反魂』は、その二人の名前に寄りかかりすぎ。華のある文人を出して、法医学が未発達だった時代を舞台にしたわりに真相が小さく、ストーリーの整合性にも疑問あり。面白い場面も随所にあったのだけれど。
『強き者よ、汝の名は女なり』は既存の映画との類似がまず引っ掛かったし、書きっぷりの古さが惜しまれる。作中に携帯電話が出てこなければ、昭和四十年代の小説として通ってしまいそうだ。同時代性を欠いた形でまとまってしまった。
『白碑』の作者が書きたかったのは、荘厳なまでに悲痛なラストシーンなのだろう。が、そこに至る道にちりばめられたのはいくつものレイプだけ。あのラストシーンにつながるまったく別の物語が書けないものか。レイプが作劇上の便利なものになってしまっている。
『セイレーンの慟哭』は、レールガンという題材といくつかの場面は印象に残るが、それを開発するに至った近未来の国際情勢、あるいはプロジェクトそのものを精緻に描けば、それだけでもっと面白くなっただろう。ミステリから離れて国際謀略企業小説といったものになったとしても。閉じる
- 池井戸潤[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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選評
不作であった。「受賞作なし」が妥当だったと思う。
『強き者よ、汝の名は女なり』は、ストーリーに無理がありすぎる。過去があり、スーパーのパートで貧困に喘いでいる女性が、たったこれだけの理由で仕事を擲ち、女児を連れて逃避行するだろうか。また女性の内面描写にも首を傾げたくなった。ただ、文章は悪くない。描きたい場面や思いつきのためにストーリーを組み立てるのではなく、登場させた人間をより自然に動かすことを意識すれば、もっといいものが書けるはずだ。
『白碑』は、中盤以降のストーリーがあまりにも唐突で説得力に欠ける。これでは読者はついてこられない。私も振り落とされてしまったひとりだ。
『セイレーンの慟哭』は、無駄の多い小説だ。だらだらと続く技術描写に辟易とさせられたし、物語の牽引力にも乏しく展開も遅い。なにより女性主人公に魅力が乏しかった。
『反魂』の、泉鏡花を探偵役とする道具立ては悪くない。だが、この物語は、本来あり得ない構図の上に成り立っている。偽装死の花魁が婚約者にメッセージを遺すのなら、せめて婚約者がどこの誰か知っている者に託すだろう。小箱の謎も無意味で、手紙を託せば済む。その結果、真相を知らぬ婚約者が連続殺人を犯すというスジ書きはいかがなものかと思う。この時代を反映させた筆致は悪くないが、構成が粗い。
『道徳の時間』にもいくつかの難がある。まず、過去の事件と現代の事件が結びつかないことだ。せめて、現代でのイタズラ事件に直面する主人公の悩みや葛藤が、過去の事件を追うことで癒やされたり、整理されたりといった解決があるべきではないか。
そして、他の選考委員からも指摘があったことだが、文章がよくない。大げさな描写は鼻につくし、誰が話しているかわからない会話にも苛々させられる。さらに、最後に語られる動機に至っては、まったくばかばかしい限りで言葉もない。
だが、選考会でもっとも問題になったのは主要登場人物の背景である。ここでは詳しく書かないが、これは決して看過できない部分であり、さらにこの小説に通底するキモの部分でもある。
この小説への授賞について、選考会で議論を重ねた結果、最終的に多数決の結着となった。薄氷の受賞となったが、私は反対に回った。
完成原稿の応募とはいえ、細かな部分を修正することについては異論はない。だが、この小説に求められる加筆修正は犯行動機を形成する根本に関わり、広範に及ぶ。私には、この小説がどのような完成形を見るのか、正直なところわからない。それなのに、なぜ受賞作として推すことができようか。甚だ不満の残る選考会であった。閉じる
- 石田衣良[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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選評
今、ミステリーは書きにくくなっているのだろうか。それが今年度の乱歩賞候補作を読み終えて、真っ先に浮かんだ感慨だった。底の見えないメディア不況もあって、出版界ではますます従来型ミステリーへの傾斜を強めている。世にこれほど推理作品は溢れているのに、ミステリー系の新人賞は当賞だけでなく、どこも苦戦中なのだ。突破口はどこかにあるはずと信じたい。来年に期待します。
「白碑」レイプ被害者の女性刑事が謎の連続不審死を追う。浮かびあがった容疑者は学生時代の友人で、彼女もまた暴行の被害者だった。拳銃をもったままの逃避行に、無謀な単独捜査とヒロインの行動がめちゃくちゃ。最後に車で北の海に飛びこむというのは、最も安易な解決ではないか。刑事はこちら側に踏み留まって、粘り強く友人を説得するという展開のほうが、まだ納得できた。
「セイレーンの慟哭」レールガン開発の細部が興味深いが、物語に変化とうねりがない。ヒロインの自衛隊技官がなにもしないからだ。当然、人物造形も浅く緩いものになっている。ただ待っている主人公でなく、重要な決断を迫り、アクションを起こさせないと、物語にならない。文章の細部がすこしおかしいので、センスを磨く意味でも、もっと読書をしてください。戦略兵器開発は船が一隻沈んだ程度のミスでは止まりません。
「強き者よ、汝の名は女なり」まずタイトルが拙い。これは主人公が男性なら、最終候補に残らなかっただろう。昔ながらの定型ハードボイルドで新しいところが見つからない。この時代に書く意義をよく考えて欲しい。自分の趣味を前面に押しだすのもいいが、現代との摺りあわせをサボってはいけない。作者は最近のミステリーを読んでいますか。
「反魂」泉鏡花が首を切断して晒す連続殺人犯を追うレトロな雰囲気の作品。これが最後まで乱歩賞を競った。展開の遅さと切迫感や不気味さが足りないのが弱点。明治三十年代を描くなら、もっとのめりこんだほうがいい。殺人犯と吉原の花魁が無事に逃げ延びて、北海道で幸福に暮らすという決着は、これでいいのだろうか。何人もの人間を殺害し、首を切断した犯人なのだが。
「道徳の時間」この作品だけが、魅力的な謎と設定を描けていた。いくつか問題点はあるが、最終的な受賞の決め手はそれに尽きる。十数年前に小学校で衆人環視のもとに発生した殺人事件、それが冤罪か否かをドキュメンタリー映画を撮りながら検証する。この構造がスリリングで読ませる。瑕疵は驚愕というより脱力を誘う殺人の動機と不必要な差別問題の提示にある。それがどの程度、改稿されるか最終版を待ちたい。
この作者には期待がおおきい。全作品中唯一、ただミステリーを書きあげるのではなく、作品の向こう側にある人間をしっかりと描こうという執念を感じたからだ。ほんとうの試練はデビュー即始まる。立ち止まらず、駆けながら学び、登りながら成長してください。閉じる
- 今野敏[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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選評
今年は、私が評価した作品が、他の選考委員に評価されなかった。これは、どういうことなのだろうという戸惑いが大きかった。真剣に作品を読み、誰を世に出すべきかを、私なりに考えた。私の小説の読み方が間違っているのだろうか。それとも、すでに私自身が時代と合わなくなっているのだろうか。そんなことまで考えてしまった。
今回私は、『強き者よ、汝の名は女なり』と『反魂』を推した。
『強き者よ、汝の名は女なり』は、まず何よりタイトルをちゃんと考えてほしかった。このタイトルで書店に本が並んでいるところを想像できるだろうか。
登場人物の名前が、読者に紹介する前に地の文に出て来たり、しかもそれが漢字とひらがなで混在していたり、いささか乱暴だ。
だが、内容は充実している。話の展開に無理がなく、必然性と説得力がある。目新しさや、際立った特徴があるわけではないが、人物がうまく描けており、地力を感じる作品だ。
『反魂』は、文章も達者で、安心して読める作品だった。時代背景や、尾崎紅葉、泉鏡花を登場人物にした探偵ものということで、好みが分かれるところだろうが、私は面白く読んだ。謎のちりばめ方もうまいし、何より人間関係の不自然さがなくて読みやすい。説明めいた記述がなく、すべて描写で読者にわからせている。これは、なかなかできるものではない。
『白碑』を読み終えた瞬間、これまで何のために二百ページも読まされたのか、と失望を感じた。この結末は納得できない。性犯罪の被害者を扱っているが、深く考察せずに書かれているような気がしてしかたがない。奇しくも、過去にひどい目にあった女性が逃避行をするという、『強き者よ……』と似たような内容だが、『強き者よ……』のほうを評価せざるを得ない。主人公が捜査を放り出して、ただ旅を続けているだけと感じてしまうのは、全体のバランスの悪さのせいかもしれない。
『セイレーンの慟哭』は、軍事謀略ものかと期待して読みはじめた。だが、読み進むうちに、その期待は裏切られた。主人公の日常や仕事の内容などをこんなに書き込む必要はない。最後にあっさりと謎解きをしているが、その部分をこそ、物語にしなければならないのではないか。
『道徳の時間』は、謎の提示の仕方がうまいと感じた。次々と投げかけられる謎で、興味を引かれる。自殺とされているのは、実は他殺ではないのか。過去の殺人事件は冤罪ではないのか。学校の科目になぞられた悪戯の意図は何か……。だが、その興味は、残念な形で裏切られる。
広げた風呂敷のたたみ方がもう少しうまかったら、私の評価も高かったと思う。差別問題の扱い方についても、いかがなものかと思った。閉じる
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選評
自分が「ミステリー」を読む際、何を求めているのかを問われたような選考になりました。
候補作五作の中で、私が強く推したのは『道徳の時間』です。これまで私は、新人賞の選考委員を務めた経験こそありますが、ミステリーに限定された賞の選考に臨んだことがなく、候補作の中でこの作品に巡り合った際、それが賞の選考だということも忘れて読み耽りました。これまでの新人賞選考では一度としてなかった初めての経験です。
この作品が私を強く魅了した理由。それは「続きはどうなるのか」と読者に思わせる作内の謎が際立って見事だったという点にあります。『道徳の時間を始めます』、『美術の時間を始めます』と、残される不穏なメッセージに惹きつけられ、現在進行形の謎と、主人公が関わるドキュメンタリー映画にまつわる過去の事件の謎が並行して描かれていくのですが、これらの謎にまつわる展開のひとつひとつがスピーディーで、最後まで読み応えがありました。特に、衆人環視の中で行われた殺人は果たして冤罪なのかというテーマは非常に映像的で、主人公がドキュメンタリーに関わるカメラマンであることとも調和が取れた魅力的な謎でした。
選考では、これらの謎が際立っていることは皆ある程度認めたうえで、真相についてさまざまな意見が出されました。物足りなさや現実としてありうるのか、という意見を踏まえても尚、私がこの作品を強く推し続けたのは、この真相が、作者が積み上げた小説内の虚構の現実の中では、ある種の説得力を十分に獲得している、と感じられたからです。
謎と真相は対になるものとして、ミステリでは必要不可欠な柱です。このバランスが取れていることはもちろん大事なのですが、それでもこれだけ光る謎を用意し、読者を最後まで導く作者にはこれからの可能性と力量を感じました。次作を楽しみにしています。
『反魂』。尾崎紅葉と泉鏡花の師弟関係を下敷きに描かれる明治の殺人事件は、雰囲気はよいのですが、あまりに先の展開が読めてしまうのと、この事件と謎に対し、なぜ紅葉と鏡花でなければならないのかの必然性を強く感じ取ることができなかったのが残念でした。
『強き者よ、汝の名は女なり』。女性主人公と少女を軸にした物語には魅せられる点も多く、センスのよい作者だと感じますが、全体的に新しいと感じられる部分がなく、この話を今必要とする読者の顔が見えてきませんでした。
『セイレーンの慟哭』。レールガン開発を急ぐ理由を、もう少し読者にも身近に引きつけて考えられるような形で見せてもらえたら、と思います。明確な謎が提示されないまま進む一方的な主人公の物語に、最後までもう一歩入り込むことができませんでした。
『白碑』。後半の女二人の逃避行が、そうしなければならない説得力に著しく欠けており、性犯罪の被害者を扱う言葉の一つ一つも、頭の中だけで考えた感情の域を出ないものに感じられました。閉じる
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第61回 江戸川乱歩賞
- 『白碑』 拓見享
- [ 候補 ]第61回 江戸川乱歩賞
- 『強き者よ、汝の名は女なり』 春畑行成
- [ 候補 ]第61回 江戸川乱歩賞
- 『セイレーンの慟哭』 一ツ木佑輔
- [ 候補 ]第61回 江戸川乱歩賞
- 『反魂』 和久井清水