2018年 第64回 江戸川乱歩賞
2018年 第64回 江戸川乱歩賞
受賞作
とうたつふのうきょく
到達不能極
受賞者:斉藤詠一(さいとうえいいち)
受賞の言葉
今では少なくなってしまった、商店街の小さな本屋で、生まれ育ちました。小説ばかり読んで、ということはなく、むしろ漫画ばかり読んでいた幼少期。ただ、面白い漫画を読み終えた後、もっと読みたい、ならば自分でつくってしまえばいいと、下手な漫画を描いては悦に入っていました。それが、創作にまつわる最初の記憶です。
学生の頃には漠然と小説家を夢みるようになっていましたが、憧れは憧れのまま、多くの友人たちと同様に就職し、時を重ねました。
満員電車の吊り革を摑んでいるうちに流れた二十数年のあいだ、真夜中に筆をとりつつ、遠く見上げていたのは小説家への扉、その隙間から漏れる光です。いくつもの原稿を積み重ねながら、このまま自分を納得させ老いていくのだろうと思いはじめた矢先、最終候補に残ることができたのは、青天の霹靂とでもいうべきものでした。
そして最終選考の日。結果を知らせる電話を取った数秒後には、開きかけた扉は再び閉じてしまうのかもしれない。発話ボタンを押すまでの、永遠にも等しい一瞬を、忘れることはないでしょう。
回線の向こうの声は、その場所が到達不能ではなかったことを知らせてくれました。
出会った人々、学んだ経験の全てが、ここに至るため必要だったのだと、今は思います。
はてしなく広がる新たな世界へ第一歩を記すのは、これからです。受賞のお知らせをいただいてからの、この数日間ですら、先に伸びる道の険しさを実感しています。しかし、ここまで導いてくれた人々に報いるすべは、書き続け、歩みを進めていくことしかありません。
ペンネームの一文字、つくりの部分には、亡き父とともに喪われてしまった懐かしき我が家、その屋号の一文字を込めています。少し違ったかたちではありますが、面白い本を街の人々へ提供するという意味において、ようやく店を継ぐことができました。
背中を押してくれた皆さま、扉を開けてくれた皆さま、全ての皆さまに、心からの御礼を申し上げます。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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本年度江戸川乱歩賞は、一月末の締切までに応募総数三四八編が集まり、予選委員(香山二三郎、川出正樹、末國善己、千街晶之、羽住典子、三橋暁、吉野仁)による選考が去る四月二十六日(木)午後五時より、講談社会議室で行われ、最終的に下記の候補作四編が選出された。
〈候補作〉
「魔境の墓掘人」碧井 行隆
「あかね町の隣人」倉井 眉介
「狩人たちの原罪」寺田 剛
「到達不能極」齋藤 詠月
この四編を六月七日(木)午後四時より帝国ホテルにおいて、選考委員の池井戸潤、今野敏、辻村深月、貫井徳郎、湊かなえの五氏による協議の結果、齋藤詠月氏の「到達不能極」を本年度の江戸川乱歩賞と決定した。授賞式は九月二十八日(金)午後六時より帝国ホテルにて行われる。
なお、斉藤氏は応募時、齋藤詠月の筆名であったが、受賞決定後に筆名を変更された。閉じる
選評
- 池井戸潤[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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頭の中でしか成立しえないリアリティのない小説という意味で、『魔境の墓掘人』はまさにその典型だ。一流大学の教授とその研究室の学生たちの言動にはそれらしさも説得力もなく、命の危険にさらされた踏破行というにはあまりに非現実的だ。アマゾンにモルフォ蝶を探しに行くという設定は悪くないが、舞台を生かすだけの知識と経験が不足している。復讐劇としても短絡的で、目的のために大した理由もなく複数の殺人をやってのける犯人の造形に共感することはできない。
『あかね町の隣人』は、幻想と現実の境界線が曖昧な小説だ。こういう小説があってもよかろうと思って読んだが、あまりに冗長過ぎた。この作者には会話を書くセンスがあると思うが、推理や蘊蓄がくどく過剰で、終盤、「健一さん」と交わす肝心なやりとりも煩雑すぎる。これでは読者はついてこられないだろう。読後感も今ひとつで、読み終わった後ですら、このストーリーをどう解釈していいのか判然としない。殺人犯があちこちに潜む架空の町のファンタジーだというのならそれでいい。中途半端な現実仕立てにせず、幻想としての世界観を確立できなかったのか。
新聞記者が主人公とはいえ、警察小説としての側面も強い『狩人たちの原罪』は、まず新しさに欠けた。しかし、本作における最大の問題は、犯行動機にある。家族を養っていかなければならない立場にある分別のある者(優秀な新聞記者)が、こんな連続殺人を犯すとは到底、考えられない。冒頭で強調される主人公の異常性も、言葉ばかりで実態が伴わない。この作者は新聞記者の業務に精通しているのだから、記事で事件を掘り下げ、犯人を暴いて社会的制裁を加えるといった、敏腕記者ならではの復讐もできたはずだ。
『到達不能極』の作者は、職業作家としてやっていける十分な筆力がある。本作は、不時着した南極ツアー、第二次世界大戦、南極観測隊という、ともすれば盛り込み過ぎになりがちな素材、複数の視点を混乱なく読ませる構成力が群を抜いていた。ヒトラーのオカルト趣味を隠し味に使い、半世紀もの時を経て成就するストーリーのスケール感も魅力的だ。私自身はSFの読者ではないが、それでもこの小説が受賞作になるだろうと確信して選考会に臨み、順当な結果を得た。
ただ、疑似意識の在り方については、再検討を要する。脳波が電気信号であるという小説的前提に基づけば、疑似意識がデジタル的な信号ではなく言語そのものを操ることについては許容の範囲であろう(脳波については実際に類似の実験があった)。だがその表現方法と中味には工夫の余地がある。ほかのディテールがよく書けていただけに、この中核部分の不用意さが悔やまれる。
だが、この作者には、こうした意見を次作に生かすだけの力量がある。新乱歩賞作家の今後の飛躍を大いに期待したい。閉じる
- 今野敏[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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小説家は言うまでもなく、読者に向けて作品を書く。自分が言いたいことを読者に伝えなければならない。特に長編では、そのためのグランドデザインが必要になる。でないと、何が言いたいのかわからない作品ができあがる。
今回の選考では、特にそのグランドデザインが問われたのではないかと思っている。
『魔境の墓掘人』の作者は、なぜ舞台にアマゾンを選んだのだろう。まず、そんな疑問が浮かんだ。アマゾンを舞台に選ぶのなら、もっと臨場感を出さなければならない。食料や水の調達などサバイバルの方法に多くのページを割いているが、現実味がなく残念だ。密林で遭難するというのは、もっとずっとたいへんなことだろうと思う。
登場人物に特徴がなくただ属性だけで語られているので、共感も反感もなく、人物が立ち上がってこない。
最後にえんえんと謎解きが続くのだが、こういうミステリの形式は時代遅れなのではないかという気がする。
『あかね町の隣人』は、それほど現実味がある話ではないのだが、妙にリアルな感じがする。
誤字脱字も多いし、記述の方法にも多々問題がある。要するにずいぶん雑な印象を受けた。だが、独特の雰囲気を持っている。受賞作の次に選考委員の評価が高かったのがこの作品だ。
この作品も、最後に長い謎解きがあるが、それが本当に必要なのかどうか、もう一度考えたほうがいいと思う。
ともあれ、独特のおかしさもあり、不思議な魅力があるので、次回作を期待したいと思う。
『狩人たちの原罪』は、冤罪と報道被害という問題意識を持ち、それを書きたい、書かねばならないという意志を感じる。まず、それを評価したい。
警察とマスコミの描写にリアリティーがある。物語自体はそれなりに面白く読めるのだが、どこか既視感があるのは否めない。そしてこの作品の最大の問題点は、冒頭に書いたグランドデザインだ。プロローグとエピローグに書かれている衝動。それこそが作者が書くべき主題だったのではないか。にもかかわらず、それはプロローグ、エピローグという飾り物のような扱いしかされていない。そのために、結局、何を書きたいのかよくわからない作品になってしまっている。それがとても残念だ。
『到達不能極』は、とにかく文章のリズムが抜群にいい。ぐいぐいと興味も引かれる。
オーパーツマニアが喜びそうな素材や、近代史上の謎とされている事柄をうまく絡めている。航空機や拳銃など正確でよく調べてあると思う。南極の臨場感もある。
だが、欠点がないわけではない。終盤のB級SFとも言われかねない設定をもう一工夫してほしかった。閉じる
- 辻村深月[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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選考で最後まで議論となったのは、『あかね町の隣人』と『到達不能極』の二作でした。
『あかね町の隣人』は、殺人が常態化している町の秘密にひとたび気づいてしまった主人公が、先にその秘密に気づいていた「先輩」とともに街の異常性を調査していく物語。
『到達不能極』は南極を舞台とする壮大なスケールの小説で、飛行機が謎のシステムダウンで南極大陸に不時着する場面に始まり、舞台は第二次大戦中、ある少年に課せられた使命とそれにかかわる少女との恋物語に飛びます。その過去が現在進行形の主人公たちの南極の冒険と密接に絡んでくる、非常に読み応えのある作品でした。
『あかね町の隣人』は、マジックリアリズムの手法のおもしろさがあり、新味があるという意見が出たのに対し、『到達不能極』は細部の描写が適切、見事で、文章も巧み。私も一読して心を摑まれたのですが、作品の中心となる「疑似意識」の描き方を巡って長い議論になりました。
戦時中に開発された機械が、果たしてこのような「疑似意識」を持てるものなのか。これは現実の技術として可能かどうかという問題ではなく、それを成し得たに足る小説内の虚構をもっと強く構築して読ませてほしかった、という思いが選考委員全員に共通していました。ただ、その問題をもってしても余りある筆致の誠実さと熱をこの小説に感じます。「疑似意識」の存在と物語の結論はやや既視感があるものの、それを新しい形で読者に届けようとする熱意、何よりこのラストが私は好きです。結果、重い課題つきの受賞となりましたが、この選考経過の声にこたえてくださる実力を持った著者だと期待しています。受賞、おめでとうございます。
『あかね町の隣人』については、著者の狙いがわかりやすく、小説もまるで寓話のようなきれいな閉じ方をしていると感じたのですが、文章がくどく、最後の推理もかなり最初の方で展開が見えてしまったので、読み進めるのがじれったい。殺人が常態化しているという異常な状況も、漫画やライトノベルの世界ではよく見る舞台設定で、かつ、既存の作品の方がより進んだ世界観を描いているという思いが最後まで拭えず、この作品が特別に新しいとは思えませんでした。
『狩人たちの原罪』。作品内で名前を与えられた限られた登場人物の中ですべてが完結していて、話に奥行きが感じられませんでした。冒頭とラストで語られる、主人公ともう一人の登場人物に共通する「執着と衝動」についても、話の主題ともっと強く嚙み合わせることができたなら、小説の広がりがぐっと違ったものになったかもしれないと残念です。
『魔境の墓掘人』。すべてに臨場感が乏しい。ジャングルでのサバイバルシーンを私は楽しく読んだのですが、登場人物が獣の血抜きを嫌がる場面など、行動や発言があまりに紋切り型で、肝心のミステリー部分も作者が頭の中で考えた世界の域を出るものでなかった印象です。閉じる
- 貫井徳郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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まずは率直な感想を。候補作四本、どれも面白かったです。ただ、面白いんだけど難あり、でした。作品評価は加点法でしたいのですが、どこが駄目かを具体的に言ってあげた方が候補者のためなので、以下指摘します。
『狩人たちの原罪』 主人公が新聞記者と刑事という設定が、まるで昭和三十年代みたいでした。今どきこれは古臭いです。
ストーリー自体はきちんと考えられていて好印象でしたが、ほとんど名前だけしか出ていなかった人が真犯人と言われても、「誰?」と戸惑いました。真犯人は判明する前にもっと書き込んでおく必要があります。また、真犯人が明らかになるのも早すぎて、さらにひと捻りがあるのかと思ってしまいました。構成にも要注意です。エピローグは、因縁が絡まりすぎていて蛇足でした。
これだけストーリーを構築できるのだから、もっと人物設定、状況設定に注力すべきです。新しさがないと新人賞突破は難しいです。
『魔境の墓掘人』 ジャングルでの連続殺人という設定は、冒険小説ではなくミステリー寄りで目新しいと思いました。ただ、ジャングルの描写にリアリティーを感じませんでした。ジャングルは蒸し暑く、体を洗えず不快で、夜も眠れずに苦しい生活ではないかと思います。そうした肌感覚の描写がまったくないのは、おそらく調べて書いただけだからでしょう。もちろん、外国を舞台にする際は必ずそこに行けとは言いませんが、想像力を働かせなければ小説にはなり得ません。
ミステリー的にも、伏線がまるでなく未熟だと感じました。もっと視点人物の数を絞り、伏線は会話や行動に潜ませるべきです。唐突な説明は伏線になっていません。
『到達不能極』 これも海外を舞台にしていますが、南極の寒さ、そこで生活することの辛さがきちんと伝わってきて、実際に行ったことがあるのかと思えるほどでした。
過去と現在の軍事に関する描写も的確で、きちんと調べて書いているのだろうと察せられました。小説の腕は、候補者一番でした。
ただ、これほどまで調べて書ける人が、なぜこんな子供騙しのアイディアを中心に据えたのか不思議でした。今のSFは本当に進化しているので、これでは通用しないでしょう。
『あかね町の隣人』 読み始めてすぐ、これは従来のリアリティーに根ざさない話だと理解しました。リアリティーがないのが今のリアル、ということでしょう。
事実か、受け入れやすい仮説かであれば、望ましい仮説を受け入れてしまうという結末は、フェイクニュースがはびこる今、非常に現代的だとも思いました。何より、「変」なのです。小説家がたくさんいる市場に打って出るには、この変な個性は武器になる。そう評価し、この作品を推しましたが、残念ながら賛同を得られませんでした。
まずはたくさん小説を読んで、小説の書き方を覚えてください。基本的な書き方が駄目では、選考委員の印象は悪くなってしまい、非常にもったいないです。
中核のアイディアを補強するという前提つきで、他の選考委員は『到達不能極』を推しました。他の選考委員の選球眼を信じ、最終的にはぼくも受賞に同意しました。閉じる
- 湊かなえ[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今年は受賞作を出したい。その気持ちを強く持って選考会に臨みました。
『到達不能極』 文章が抜群に上手いと思いました。現在と戦時中、さらには現在においても観光チャーター機パートと南極観測隊パートに分かれていて、それぞれに専門的な用語も出てくるのに、混乱することなく読み進めることができました。SF的な部分では30年以上前に読んだ漫画を連想してしまいましたが、ここがブラッシュアップされれば、多くの人に楽しんでもらえる作品になると、確信しています。おめでとうございます。
最終選考に残った作品は、どれが受賞してもおかしくない状況にありました。本当にわずかな差だったのです。どうか、落胆することなく、自信を持って、ぜひ新作を書いていただきたいと、皆さんに対して思っています。
『あかね町の隣人』 人殺しだらけなのに、町人たちは真実から目を逸らすことによって平穏に暮らしている。そのため、事件の真相も、こうだろうという想定はできても、確定されずに終わってしまう。こうした物語全体に漂う不穏な空気や不確かな世界を描くためには、確かな文章力が必要だと思います。このモヤモヤする気持ちは物語によるものだろうか、文章の下手さからだろうか、と読み手を悩ませてしまっては、作品のおもしろさは半減してしまいます。台詞と地の文で二度同じことをいっている部分が多い他、視点がぶれた表現が多いことも気になりました。母親が犯人かもしれないので、主人公も真実から目を逸らすようになりますが、先輩のことをそんなに簡単に割り切れるものかと疑問が残ります。主人公が町の空気に融合してしまうラストなら、一人称ではなく、三人称一視点で書いた方がよかったのかもしれません。段落が一文字落としになっていなかったり、「行動」→「講堂」といった変換ミスが多いので、あまり推敲していないのではないでしょうか。今後、独自の世界観をさらに際立たせるためにも、最後の一文字まで集中して、作品に寄り添ってみてください。
『魔境の墓掘人』 アマゾンを舞台に連続殺人が起きるこの物語を、私はおもしろく読み、高得点をつけました。特に、野外活動的な場面はわくわくしました。しかし、主人公の危機管理意識や野外活動の知識の高さが、「東日本大震災の被災者だから」なのは、この作品においては納得できません。書き手が作り上げた世界の中で、現実では考えられないことが次々と起きるのは大歓迎です。ふざけきった方が楽しいこともあります。ただ、そこに現実の出来事を入れるなら、慎重な配慮が必要なのではないでしょうか。次は、ご自分の世界観のみで勝負してみてください。
『狩人たちの原罪』 中盤、星野(犯人)がもう少し出てきてほしかった。女性刑事のエピソードはいらなかった。不満はその二点のみです。文章も上手いです。主人公のキャラクターでもいい、ガツンと一発、心に残る何かがあれば、次は必ず受賞できると思います。閉じる
立会理事
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第64回 江戸川乱歩賞
- 『魔境の墓掘人』 碧井行隆
- [ 候補 ]第64回 江戸川乱歩賞
- 『あかね町の隣人』 倉井眉介
- [ 候補 ]第64回 江戸川乱歩賞
- 『狩人たちの原罪』 寺田剛