1961年 第14回 日本推理作家協会賞
受賞の言葉
あだ花の記
探偵作家クラブ賞をいただいて、何か感想があればかけという佐野洋氏からの電話である。考えたことを書いてみることにする。
私は、推理小説といえるかどうかわからないもの(自分でもそのように考えている)をこれまで試作してきたが、今後も当分、そういう作業をつづけてゆくつもりである。
私がなぜそういうことにこだわるかというと、こんどの賞をいただいた夜の各氏の批評にもあったように、推理小説になっていない点が私自身には書き甲斐のあるところであるからだ。
小説は人間を書かねばならない。したがって、人間のかもし出す事件も、人間の生きる環境や、背後の社会組織などの成立ちを追究しないと書きつくせない。いつもこのようなことを考えているので、書く小説が、ちゃんと纏まってくれない。といって、こっちに透徹した社会眼や人間への見識があるわけでもないのだが・・・。勝手に人間がひとり歩きしてしまうこともあるし、その人間の人となりに現実性をつけるため、ごてごてと書き込んでゆくうちに、スマートな殺人小説からハミ出てしまう仕儀となる。
これは困ったことである。私にはどの小説の中にも一人づつ私の分身がいて、その分身を殺したり、その分身がもつ世の中への怒りやらを出してみたりする楽しみはまた格別なのである。
こんど、「雁の寺」という短篇を発表したが、これも私小説を書くつもりで始めていたものを殺人小説にしてしまった。つまり私が恨んでいた和尚さんを殺す仕儀となって困ったわけであるが、これなども、また推理小説からハミ出てしまったものとして酷評をうけるのではないかと、今から心配している。
「海の牙」もまた然りである。推理小説の骨法をつかって、社会的な恨みや、人間的な感情を表に出して果してみる作家も一人ぐらいはいていゝのだろう、と漫然と自分のことをそのように考えている。いや、試作でなくて、そのようなものを完成してみたいと考えている。あの授賞の夜、私は横溝正史先生にはじめてあった。人間的な感動をおぼえた。賞をもらいにいって、そのお祝いにきて下さった方と始めてあって感動をして、そっちの方に気を取られるというのもまた人間なのである。先生の仰言った花いろいろの中で、私もまた一輪の花を咲かせてみたいと思う。あだ花はまたあだ花の美しさがあろうというものではないか。
- 作家略歴
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1919~2004
福井県生れ。旧制中学卒。
寺の徒弟、 代用教員など多くの職業を経験。 宇野浩二に師事して一九四八年、「フライパンの歌」を刊行。五九年、初の推理長編「霧の影」を刊行し、つづく「海の牙」で六一年の日本探偵作家クラブ賞を受賞。また、同年に「雁の寺」で直木賞も受賞している。主な推理長編に、「巣の絵」「火の笛」「銀の川」「耳」「死の流域」「飢餓海峡」「宇野浩二伝」(菊池寛賞)「一休」(谷崎潤一郎賞)「寺泊」(川端康成文学賞)などがある。「越前竹人形」「一休」「寺泊」ほか作品多数。
八五年度芸術院恩賜賞。
受賞の言葉
よろしくどうぞ
神奈川県で、いわゆる『山本事件』という火薬庫爆発事件があった。それを新聞で読んだ時、ぼくはこれは使えると思った。
死亡を偽装するにはもってこいの方法だし、その方法として規模も大きく、近代性があると信じた。
『山本事件』は、事実山本氏が死を装って姿をくらましたものか、また自爆をしたものか、はっきりしていない。警察当局は偽装自殺と判断したようだが、確かまだ山本氏は発見されていないはずだ。
だが、『山本事件』をそのまゝ使ったのでは、単純でもあり、ネタも割れやすい。そこで、もう一ひねりすることにした。
その頃だったが、友人とお喋りをしているうちに、「現在、憎悪の激しさの点で、第一第二組合の組合員間にあるものが、いちばんだ」という話になった。
三池炭鉱の斗争が激烈をきわめていた頃だった。個人的な憎悪プラス思想的対立感で、それも感情だけではなく生活をも左右する点で、その憎悪は根強いに違いない。日本の悲劇と言われるのも無理はない。――と、そんな言葉を交していたのだが、ぼくはこれも材料になることに気がついた。
そしてまた同じ頃、ある出版社の人と今後の推理小説に就いて議論した。これからの傾向としては、なるたけ巾広くいろいろな要素をとり入れて行くべきだ、とその人は教えてくれた。つまり、社会派とか本格派だとか、一つの傾向にこだわらずに、あらゆる要素をミックスせよというわけである。
結論として、ぼくが書くべき推理小説は次の三つの要素をもつものがいいと指示された。
1.本格味を必らず作品の背景とするべきだ。本格派なのだから。
2.本格味とロマンを融合させよ。男より女を描く方が馴れているらしいし、通俗性を持っているのも、ある意味では強味だ。
3.本格味とロマンを融合させ、それにハードボイルド風なものを加えなさい。
火薬庫爆発の山本事件。第一第二組合に分裂して憎悪を燃やすという悲劇がたて続けに起った。ぼくが心がけるべき傾向への指示。
以上の三つが発想となり、出来上ったのが『人喰い』だった。
作家クラブ賞の受賞を知らされた時、それだけに感慨が深った。自分の頭の中で作ったものではなく、いろいろな流れがある時点で合流して、ぼくに『人喰い』を書かしてくれたように思えたからだ。
これまでの受賞者諸氏も、同時受賞の水上さんにしても、一人前の作家ばかりだったことも、ぼくが受賞者となった喜びを倍加させた。ぼくのようなチンピラがと、腕が縮みそうな気がした。自信がついただろうと言われるが、どうやらその反対らしい。確かに受賞後は、原稿の締めきりに殆んど間に合わなくなった。何を書くのも怖いような気がして、字を書く速度が遅くなったのだ。
しかし、ファイトだけは増したようである。意欲倒れして何も書けないのだろうと、ヒヤかされるくらいだ。
とにかく『人を喰う』ような小説を書ければいいけど、『自分が喰われて』しまいそうな不安もある。
どうか、今後ともよろしうご指導くださるようにお願い致します。
- 作家略歴
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1930.11.15~2002.10.22
東京生まれ。生後まもなく本籍地を横浜市に移したので、神奈川県出身とされている。昭和三五年(一九六〇)処女作『招かれざる客』により、作家生活にはいる。以後、三七年間の著作数三六六冊。昭和六三年(一九八八)喧噪を逃れて佐賀県に移住。主なる作品は『人喰い』『六本木心中』『木枯し紋次郎シリーズ』『宮本武蔵』『取調室シリーズ』など。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 中島河太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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詮衡経過と授賞決定まで
近年のように推理小説と呼ばれる作品がおびたゞしい量にのぼると、単行本からあらゆる雑誌に掲載されたものを見逃さずに読むことは辛い。こういう予選担当の役割を果たす人がほとんどなくなったので、前年度は広くクラブ外で熱心に読んでくれる方に委嘱したのだが、クラブ賞は既授賞者を除くという原則を無視されたり、お座なりのものだった。
本年度はやはりアンケートを参考に、全作品に目を通してくれる方にお願いすることにきめ、作家会員と推理小説批評の筆を執っておられる部外者に回答をお願いした。アンケートは百五十通出して、約四十通の回答を戴いたが、もちろん回答者の読まれた範囲での推薦作であるから、この集計がそのまゝ本年度の佳作を示すものとはならない。
その結果は作品別にすると次のようになる。
海の牙 水上 勉 八票
人喰い 笹沢佐保 八票
金属音病事件 佐野 洋 七票
長い長い眠り 結城昌治 六票
耳 水上 勉 四票
静かな教授 多岐川恭 三票
夜の挨拶 樹下太郎
次に作家別に集計した結果が左表である。
水上 勉 十六票
佐野 洋 十二票
笹沢佐保 十票
星 新一 七票
結城昌治 六票
多岐川恭 四票
樹下太郎 四票
(三票以下略)
以上の結果にもとづき、予選委員に委嘱された黒部龍二、大内茂男両氏と私の三名で審議した。星氏は作品として票の集中したものがなく、前々からクラブ賞詮衡の対象として短篇の取扱いについては、短編集などに纏められた際に考慮するとの申合せを尊重し、除外した。佐野氏の「金属音病事件」は中篇で、他の作品がいずれも長篇であることに鑑み、氏の中篇構想力の力量を高く評価し、中篇集「透明な暗殺」をも、同時に詮衡対象にすべきだという結論を得た。
本年度授賞候補作として次の四氏を推薦した。
海の牙 水上 勉
金属音病事件及び中篇集「透明な暗殺」
佐野 洋
人喰い 笹沢佐保
長い長い眠り 結城昌治
さて決定委員会は幹事会がこれを兼ねることになっているが、欠席者が多く成立を危ぶまれた。現今では各種の文学賞詮衡が多く、いずれも各委員が出席し熱心な論議の交されていることが窺われるが、わがクラブ賞についていえば、七名欠席という驚くべき誠意のなさである。このことについては席上でも話がでたが、幹事会が詮衡委員を兼ねることの当否はともかく、改めて制度を検討すべきであろう。
決定委員会において、出席委員はまず一作ずつを推薦することにした。笹沢、佐野、水上の三氏に絞られ、一作決定に難航した。本格物のすぐれた収穫として笹沢氏を推すものと、推理小説としての構成の破綻を認めながら、強烈な意欲を盛った水上氏を推すものとあり、結局一作に授賞するか、二本立てにするかが提案され、本年度は二作に授賞することに決定した。
本年度のようにすぐれた作品にめぐまれた年には、二本立ては当然であろうし、推理小説に各種の傾向作風がある以上、にわかに一作を採りにくい。私も二作授賞を支持した。閉じる
選評
- 渡辺啓助[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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かつては推理小説というと(戦前のことだが)一段低級であるかのごとく見られた時期があった。インテリさんの或るものは、電車の中で「探偵もの」などを読むと軽蔑されるのを気にして、カバーして読んでいた時期もあった。
「なんだ探偵小説か」と、まるでその本の持主がうす汚い知能の低い悪食家であるかのように扱われた時期もあった。
現在でも外国ですら、推理小説に対する偏見が必ずしも払拭されてはいないようだ。こすっからい、実利主義の、がめつい、浅薄な人物を表現するのに、「彼は探偵小説を読んでいた」というふうに書く、探偵小説を浅薄な階層を表現する手頃な小道具のように扱っている本を私は最近読んだばかりだ。その本が立派な本だけによけい気になった。しかし、全体的に見てそういう扱い方が漸減しつつあることも確だ。
九月の土曜会で「推理小説は文学たり得るか」というディスカッションをやったら、かなり反響があり、中には、今どきそんな論議をやるのは作家自身に、文学たり得ないというコンプレックスがあるからだろうと批評する仁もいた。
私自身は文学であろうがなかろうが、別に気にしないけれど、あゝ云う論議をことさらに持ちだしたのは、推理小説の特殊性というものに、私たちは自負心をもっていたからだ、およそコンプレックスなどとはほど遠いものだ。いさゝか子供じみた云草でモウシワケないけど、私は私なりにプライドめいたものをもって、三十年以上この仕事をしてきたのである。コンプレックスがあったら、そんなに長いこと推理小説などでモタモタしていられなかったはずである。
むろん、軽蔑されたのは、作家側の未成熟だったせいともいえよう。しかし、これはむしろ作家側よりも、読者・批評家をふくめての側に、探偵小説を下等なイカモノ扱いにするコンプレックスの傾向があったのではないか(推理小説は文学足り得るかとの論議は、この傾向と関連して、その社会的風土を追及してゆくことにあった。そこにこのデスカッションの終局的目的があったのだが、時間ぎれのために、他日にゆずらねばならなかったのである。)
何はともあれ、それが戦後になって、日本の風土もようやく推理小説を受け入れるのに適するようになってきたらしく、その普及化は今日のいわゆる推理小説ブームを築きあげるにいたった。
もはや教養人も推理小説をカバーなしで読めるようになった。町の主婦たちが貸本屋から、推理小説を借りて買物籠の中に入れて帰るのを見かけるのは心楽しい風景である。彼女たちはそのために決して犯罪をそそのかされたりはしないだろう。むしろ彼女たちはより聡明に、合理的に生活をインジョイするようになることを私は信じて疑わない。
ところで、このようなブームのために、クラブ賞選考がなまやさしいものではなくなってきたこともまた事実である。
二月二十五日夜、クラブ賞決定委員等は相会して、最後までもみにもんだのである。候補作品が多すぎて、いろいろ問題もあったが、ともかくも笹沢・水上・佐野・結城の四氏の作品にしぼって検討することになった。
候補作品の中に佐野洋氏の「金属音病事件」があった。これは「宝石」に発表されるや否や、私がとりあげた作品であった。心理学のエクスパートだけあってまことにユニイクな出来栄えだった。私はその直後、あれは九月末の土曜会の席上だったろうか、ちょうど佐野氏と隣り合せにすわったのでさっそく同君に私の読後感をもらして推賞せずにいられなかったくらいである。
ところが、フタをあけてみると、選考の結果は佐野氏は惜しくも破れ、笹沢氏の「人喰い」水上氏の「海の牙」が受賞と決定したのである。ということは、例年に比して、いかに質量ともに力作が多く、いずれも劣らず拮抗していたかを証明するものである。
もっとも推理小説ぐらい、アラ探しし始めたらきりがないものもちょっとない。
笹沢氏の「人喰い」にしてもそうである。その最も根幹的なトリックが坂口安吾氏の「不連続殺人事件」のトリックとかなり似ている、という点を指摘されると急に生彩を失ってしまうという弱味が出てくる。しかし、独創的でないにしても、全体の構成が、ほどよくバランスがとれていて、本格推理の建築美が、なかなかみごとである点は受領資格十分である。あれだけ微密にしかも均質に書き上げることはおそらく汗みどろの苦業だ。彼のスタミナに敬意を表して、努力賞の意味も加味されているわけだ。
水上氏の「海の牙」についても、難点を云えばこれまたきりがない。例の九州の社会問題化した悲しい奇病が主題になっていて、そのウェイトがあまりにもかゝりすぎて、推理小説的骨格がそのためにゆがめられたことは否定できない。しかし、氏のヒューメンな情熱と新しい分野のパイオニヤとしての意慾は充分買わなければならないと思う。近頃器用な人がふえてきて、チョコチョコとインスタントらあめん風に、書きあげてしまう人がいるけれど、ほんとうに勉強して、がっちり取組むという人は案外少い。水上氏の「海の牙」のどっしりした重量感は多年の蓄積が物を云ってるからであろう。
結城氏は私の好きなスタイルの作家である。しかし、「長い長い眠り」は、私の食慾を期待ほどには満足させてくれなかった。私の期待が大きすぎるとは思わない。こういう作家は、書かせる側でも、もっと大切にしなければならない。氏の本質は、おそらく、あまり本格もののルールなどにこだわらず、奔放自在に語らせることによって、新種のすばらしい開花が期待されるのではなかろうか、今後が楽しみである。
なにしろ、惚れっぽい私は、あれもよし、これも捨てきれず、いろいろと目うつりがして、選考というものが、ハタで見るほど楽でないことを痛感した次第である。閉じる
- 日影丈吉[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今年の候補作五篇(佐野氏のを二篇として)それぞれ昨年度、評判になった作品だけに、期待して読んだ。選考期間が短かったため、長篇を続けて読むのは、ちょっと苦痛だった。ぼくらの数十倍も読まなければならない予選委員の先生達は、超人なのではないかと、いぶかったくらいだ。鬼とは、まことによくいったものである。
候補作はさすがに、それぞれ見事な出来だった。が、見ようによっては、みな相当大きな難のあるものだった。推理小説がブームの波に乗って急上昇して来た過程で、さかんに泡を立てながら動揺しているさまを、見るような気がする。きれいで壮烈な魚紋である。
こういう時期に、作品が完璧でないから、あるいは難があるからといって、とらなかったり、推理小説とはこういうものであるから、特にこの作品をとるというような考え方は、ゆるされないように思う。逆に推理作家、及び作家クラブが、外部から規定されるような方向に進む必要はない。
結果としては、すべての候補作が公平な立場で選ばれ、作品の比重から、水上、笹沢両氏のものが受賞することになったのである。すくなくとも、この二篇は両氏の代表作といえると思う。
今年、賞を逸した佐野、結城両氏も、ある面では受賞両作家に優越した実力を持っているのであるから、近い将来、また授賞の対象になることは疑えない。想をあらたにして、勝負の場にのぞんで頂きたい。閉じる
- 大河内常平[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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三十五年度クラブ賞が、笹沢、水上両氏に決定した。
したがって恒例によって、クラブから両氏に賞がおくられるわけであるが、これは賞金を副賞とし、本賞としては御承知のように、ポーの像をさしあげられる決りである。
選考の経過などについては、諸先輩、諸兄が執筆されることと思うので、わたしは此のエドガー・アラン・ポー像について、書くことにする。
江戸川賞がホームズの像だから、ひとつクラブ賞として、遅まきながらポー像を造ろうじゃないか―という声が起ったのは、一昨年の夏頃であった。
幹事会にかけてから、当時の幹事長だった日影丈吉氏と、彫刻家の遠藤光行氏をおたずねして、快諾をうけた。
また、少ない資料から、もっともポーに近い像をつくらねばならぬ、とあって、かねて指輪の考証などでポーの顔とはお馴染みの深い―椿八郎氏をわずらわして、江戸川先生御所蔵のエッチング、写真などから、おおいにモンタージュして原型をつくりあげた。
台の本質部から頭部ブロンズ像の頂点まで高さ三十七センチ、合金属のポーの頭像が、十六センチである。
これに幅七センチ角の木台がつき、その中央に長さ七・五センチ、幅一センチのプレートがつき、「日本探偵作家クラブ賞」とタテに刻んである。
また裏面には、受賞者と年度を記録した銀の板金がつけられた。いずれもその専門家である、会員の朝山蜻一氏が、書き文字の原字を書いたものである。原型ができたので、今後は毎年補充して、クラブ賞本賞にあてるわけである。
前重量が二キロ、ポーのブロンズ部分が、一キロ三〇〇グラムとなった。
一昨年以前の既受賞の人達にも御希望順に注文し、なかには木々高太郎氏が持参され、アメリカ探偵作家クラブに、飾られているような像まである。
こうした場合は、特例として、裏面の板金は除いて贈ることになった。
制作に当られた後藤光行氏によると、こうしたブロンズ合金の材質は、古代エジプトの発掘出土品などにみる金属製品よりも、はるかに進歩した、何萬年の風雪の腐蝕にたえる質のものであるそうだ。
したがって人類は亡び、その著作は失われても、この本賞とは之ある受賞者の記録は、永遠にクラブ賞とともに残るかもしれない。
賞金などは、一晩でも使いはたせる。本賞のポー像を制定して、本当によかったと思うのである。閉じる
- 城昌幸[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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探偵小説作家クラブの昭和三十五年度、第十四回クラブ賞の選考を、二月二十五日、芝田村町の木村屋で行った。
委員で集った者は八人、日影丈吉、大河内常平、角田喜久雄、渡辺啓助、城昌幸、中島河太郎、島田一男の諸氏で、山田風太郎氏が手紙で意見を送られた。
候補作品は、水上勉『海の牙』、佐野洋『透明な暗殺』同じく『金属音病事件』、結城昌治『長い長い眠り』、笹沢佐保『人喰い』の五篇、作者は四人である。
今年は、下読み諸氏の意見に依り、短篇よりも中篇以上という方針に従って、右のような選出となったものである。この方針が、今後も蹈襲されるのか、どうか、ということは未決定だが、どうしても短篇は、量的な圧倒力のある長篇には、その読後感が及ばないという憾みがある。その為もあってか、昨年度、顕著な活躍を示した佐野氏の作品が、論争の対象から先づ外されてしまった。今後、長短の問題を、どうするかは、改めてクラブで検討しなければならないと思う。
委員の半数以上は、『人喰い』を、その本格的な努力を認めることに依って推した。犯罪動機が些か薄弱だという難点はあったが、むしろ、よくこゝ迄、書きこんだものだと作者の並々ならぬ手腕を高くかった。
ところが、少数意見ながら、『海の牙』を強く推す空気が動いた。理由は、現代に取ってのその社会的意欲で、探偵小説の分野とその角度を広く拓いた野心は認める可きだという主張である。
こうして甲論乙駁、烈しい論議の末、それでは2篇とも適格としようという動議が提出され、全委員これに賛成、暫くぶりで、当クラブは作家二人に拍手を送ることになったのである。閉じる
- 多岐川恭[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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私は佐野洋氏の「金属音病事件」をえらんだ。着想と、それに基づいた話の展開が巧みであり、結末もユニークだと思った。しかし、推す場合、この作品だけでなく、昨年度に発表された同氏の諸作品がすぐれていたという実績もふくませている。
ところが、票が割れて、膠着状態になってしまった。出席者が少なかったせいもあるが、投票をやり直しても同じことになりそうだった。
私は、佐野氏は今後いくらも機会はあることだし、授賞するなら将来書かれるであろう長篇に・・・という一部の人の意見に賛成して、笹沢佐保氏の「人喰い」を推すことにした。
「人喰い」は本格推理小説としての骨組みがしっかりしており、ナゾ解きとして巧妙だと思う。文章も正しい格調をもっている。ある部分のトリックに少し引っかかった記憶があるが、それを除けば、十分賞に価する作品だと考える。
これで一応、「人喰い」に決まったわけだが、その後二本立て授賞の意見が出て、投票の結果、本年度は二本立ということになった。私は二本授賞に賛成した。というのは、水上勉氏の「海の牙」が落ちるのは不本意だったからである。
作品の与える印象の強さから言えば、「海の牙」が第一である。重量感は他の追従を許さないと極言してもいいだろう。ただ問題になったのは、「推理小説」としてどうか、という点で、これは正直に言って、私は否定的である。だからといって、「人喰い」が上とも評価できない。意地の悪いことを言えば、このニ作を足して二で割ったら、さぞよかったろう。「人喰い」には、もう少しの掘り下げがほしかったが、ともかく異質の二作に授賞ということで、私はほぼ満足した。閉じる
- 水谷準 [ 会員名簿 ]選考経過を見る
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授賞式も席上でも申上げたが、今回の授賞については、選考委員でありながら、雑事のためにその責任が果たし得なかったことについて、クラブにはもちろんのことだが、受賞の笹沢、水上両君に対して深くお詫びをしなくてはならない。
文学賞というものは、それ自体はたいして意味のあるものではない。とわたしは思う。グループを形成しているものたちの形式的な意思表示にすぎない。問題はそれを受けとる作家の側にある。受賞によって彼は自分自身を客観的に眺めるチャンスを与えられる。そこで、作家としての第二の段階へ踏みこむことができるわけである。
わたしもクラブ賞を貰ったが、その時賞を貰ったわたし自身に、じつは幻滅を感じたものだった。それ以後作品を書かなくなったのは、あながちクラブ賞受賞のせいのみではないが、それがひとつのきっかけになっていることは事実である。
そういう例もあるわけだが、もちろん人はあらゆるチャンスをよい方へ利用すべきである。笹沢、水上両君がわたしの真似などしないで、このチャンスを大きな飛躍への踏切台にしていただきたいことを祈りたい。閉じる