2005年 第58回 日本推理作家協会賞 短編部門
2005年 第58回 日本推理作家協会賞
短編部門
該当作品無し
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 北村薫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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第五十八回日本推理作家協会賞の選考は、二〇〇四年一月一日より同年十二月三十一日までに刊行された長編と連作短編集、及び評論書などと、小説誌をはじめとする各紙誌や書籍にて発表された短編小説を対象に、昨年の十二月よりそれぞれ予選を開始した。
協会員と出版関係者のアンケート回答を参考に、まず長編および連作短編集三〇〇、短編六五九、評論その他十九作品をリストアップした。協会が委嘱した部門別の予選委員が、これらの選考にあたり、長編および連作短編集五、短編五、評論その他五の、各候補作品を決定した。
本選考会は、五月二十四日午後三時より、第一ホテル東京にて開催された。長編および連作短編集部門は、有栖川有栖、北森鴻、黒岩博行、直井明、法月綸太郎(立合理事・馳星周)、短編部門、評論その他の部門は、井上ひさし、京極夏彦、桐野夏生、藤田宜永、宮部みゆき(立合理事・北村薫)の全選考委員が出席して各部門ごとに選考が行われた。
今回は、長編および連作短編集部門で二長編が受賞することになった。一方、残念ながら短編部門では受賞作を出すことが出来なかった。詳しい選考内容については、各選考委員の選評を参照していただきたい。
選考後の記者会見には、戸松淳矩氏と日高恒太朗氏が出席し、受賞の喜び、今後の抱負などを語った。貴志祐介氏からはファックスにて受賞コメントが寄せられた。閉じる
選評
- 井上ひさし[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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『不時着』(日高恒太朗)は、これまでに書かれた陸海軍の特攻隊についての書物の中でも屈指の一冊、迷うことなく受賞作に推した。
作者は、<仕事の行きづまり、体調の不良、家族を捨てたという呵責の思い>から、死場所を探しながら放浪を続けていた。つまり、自分で自分に死刑台へ登るよう命じたわけだが、あるとき、同じような状況に追い込まれていた特攻隊員の存在に思いあたる。作者の場合は、死刑の宣告を自分で解除することもできなくはないが、特攻隊員にはそれができない。命令は絶対である。そこで作者は<特攻隊員に選抜され、基地を飛び立ち突入するそのときまで、いわば死刑台の階段に足を乗せ、そのステップを一歩一歩踏みしめながら登っていくとき、彼らは何を思ったのか、何を考えたのか。それを知りたい――>と思うようになった。
とりわけ作者は、死ねなかった特攻隊員の事情に深い関心を寄せる。「死なずにすむならそうしたい」という作者の切実な思いがそうさせたのだ。
普通ならば、カクカクシカジカであったという事実を得たところで、読者の仕事はおしまいだ。もちろん事実を知るだけでも大したことなのだが、本書では、カクカクシカジカでこうだったが、その結果、作者と「死」の距離はどうなったかという物語がつく。解明される客観的な事実と作者の生死のかかった物語――この二重の構造が、本書にいささか陰鬱だがそれでも香しい文学精神を吹き込んだ。証人から証人へと聞き込みをつづけて行く追跡の過程にも上質の推理小説を読むような興趣が溢れている。
さて、作者の突き止めた事実はどうであったか。たとえば、軍は、昭和十九年には、約十五万人の特攻要員を採用する。作者の言葉を借りれば、<「消耗品養成」という言葉でしかいえないような予科練の大量採用をくり返した。>
そして特攻隊員に指名されたときの若者たちの心境は、<自分の名前が出てこないように、胸のなかでひたすら祈っていた。だがその願いもむなしく自分の名前が告げられた。一瞬目の前が真っ暗になった。/カアッと熱い血がのぼり、一瞬それが冷水となってザアーッと音を立てて引くような名状しがたい状態に置かれた。/自分の存在が、足下に一匹の蟻にも及ばないように思えてみじめだった。/おえら方に向かって「お前らはなんで征かんのか? この腰抜けめ!」とあたりかまわずわめきたい衝動に駆られた>
えらい人は生き延びて、若者だけが死なねばならないという不条理<ばかばかしさ>、そして命中率が一~三パーセントという愚挙。
ついに作者は怒り出し、そして、この若者たちの口惜しさを書かないうちは死んでなんかいられるものかと発奮する。このあたりの感動は筆舌に尽くしがたいが、おびただしい死の向うに生の明かりを観て、作者はここへ生還を果たした。死を凝視して怯まぬ作者の度胸に脱帽する。閉じる
- 京極夏彦[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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小説というのは作りものである。一から十まで嘘なのだから、歴史的事実と異なっているとか、時代考証が間違っているとか、そうしたことを論って瑕疵とすることは(論う方は面白いかもしれないが)無意味なことだろう。また、作品中の倫理観や道徳観などといったものも(括弧付きでは大いに気にするべきではあるけれど)、直接的には評価の基準となり得ない。作中にどれだけインモーラルな人物が登場して非人間的な言動をとろうと、それが作品に貢献する「装置」として機能しているのであれば、良しとするしかないからだ。
但し、例外はある。例えば、その作品がなんらかの歴史的事実に依拠する形で成立しているものである場合、それ以外の歴史的背景を作中で無視してしまうような書き振りをすることは、著しく効果的でないといえる。間違っているから駄目なのではなく、間違っていると作りものが成り立たなくなってしまうケースがままあるのである。その場合、意図的にはずしていたのだとしても興が殺がれる結果となり兼ねない。
また、一般的な倫理観に抵触するような設定や表現を扱う場合も、それ自体が作品にとって必要不可欠な装置となって「いない」場合は、やはり効果的とはいい難い。問題視もされ易いし、置換可能なガジェットであるなら扱うべきではない、と考えることもできるだろう。
どんなものでも「これしかない」と「これでもいい」に、差が出るであろうことは想像に難くない。テクニック的に申し分のない仕上がりであっても、いや、巧緻な仕上がりになっていればいるほど、後者には手慰み感が出てしまうものである。
評論であってもインタビュー集であっても、その点に関しては同様だろう。「これしかない」ものを「これしかない」形で作りあげることが出来れば、たとえ幾許かの瑕疵があったとしても、それを補って余りある感興が望めるはずである。
そういう意味で、受賞作となった「不時着」は図抜けていたといえる。
受賞作はノンフィクションである。創作ではないから、もちろん嘘は書かれていない。とはいえ、データを並べるだけでは作品にはならない。主観なきノンフィクションはやはり成立し得ないのである。それでいて、ノンフィクションにはフィクションとは異った説得力が必要になる。事実に依拠して書かれたものという装いをすることが大前提としてあるのだから、フィクション以上に精緻で慎重な姿勢が要求されることになるのである。
受賞作は、精緻さというより実直さがノンフィクションとしての体裁を支えている。加えて、執筆の動機、調査対象、取材の方法、そして構成や筆致など、どれをとっても「これしかない」ように読める作りになっている。選択の余地のない勝負感が如何ともし難い「強さ」を生じせしめているのだろう。
惜しくも賞を逃がした他の候補作もいずれ劣らぬ完成度ではあったのだが、「不時着」の勝負感にはわずか及ばなかった、ということになるだろうか。閉じる
- 桐野夏生[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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<評論その他の部門賞>
物を書くということは、実は大変愚直な行為でもある。言葉を探し、間違っていやしないかと何度も振り返る。出口が見えなくて立ち止まってしまうことだってある。辛い仕事を全うするのは、執念しかない。それは、自分にこんな辛い思いをさせるのは何か、と自分の中の芯を探すことだ。その意味で、『不時着』には圧倒された。真の愚直さがある。物を書く本質が表れている。私は、まず著者の姿勢にうたれたのだ。人生が、記憶という途切れ途切れのもので成り立つことを熟知しているかのように、各章ごとに現れる人物たちは、それぞれの「小義」を語る。「小義」を沢山積み重ねていけば、自ずから「大義」の馬鹿馬鹿しさが浮かび上がり、何とも言えない悲しみに満ちたノンフィクションの傑作となった。ご受賞を心から喜びたい。
『ゴシックハート』には期待したが、やや総花的で、考え抜かれて研いた思考には思えなかった。『探偵小説と日本近代』は、面白い論考も見受けられたが、各論考を貫くための最初の視点が弱く感じられてならなかった。『子不語の夢』については、書簡が主体となっているが、実は脚注の方が数倍面白い、という論議が交わされた。同感である。『ミステリアス・ジャム・セッション』に関しては、雑誌なのか単行本なのか、どっちつかずの雰囲気が伝わってきてしまう。しかも、これだけの量が集まれば、欠点が浮かび上がらざるを得ない。即ち、愛に満ちているが故に、批評性が欠如している点である。
<短編部門賞>
私は朱川氏の「虚空楽園」を推した。他の作品にないエロティシズムが感じられたせいである。力を殺いだ筆致で、爬虫類の血の冷たさや行動の鈍さまでも喚起させるようにうまく描いている。残酷な肉体改造の末に放り出された女は、この先どうやって生きていくのか。先をもっと読みたい衝動に駆られる。ということは、短編としての完成度の問題とも関係しているのかもしれない。荻原氏の「お母さまのロシアのスープ」も、「虚空楽園」に味わいが似ている。が、「虚空楽園」の方が、より人間の愚かさや悲しみに近付いているように思えた。「お母さまのロシアのスープ」が、生まれつきのフリークを種明かしにしてしまったことによるのだろう。「二つの鍵」は、よく出来たパズルとして感心した。が、中世イタリアを舞台にしているのなら、もっと完全なディテールを備えて貰って、小説として楽しみたい欲もある。「東山殿御庭」は、謎解きの言葉「しう」にやや苦しさを感じた。「お題」があっての作品と聞いて、巧さに脱帽はするが。『大松鮨の奇妙な客』は、題材、謎解き共に落語のようなおかしみがある。そのおかしみの味わいに好感を持った。閉じる
- 藤田宜永[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短編部門で受賞作を出せなかったのは至極残念なことだ。『大松鮨の奇妙な客』は謎の提出の仕方にすこぶる興味を持ったが、あまりにも話を面白くしようとするあまりだろうか、展開が荒っぽくなってしまったのが残念である。『東山殿御庭』は実力派の作家の作品だけに、文章も物語の運びも安定感がある。謎の提出の仕方に疑問を持ったが、これはお題をもらっての作品、と選考会場で聞き、そういう無理があったのか、と同情的な気分になった。『お母さまのロシアのスープ』と『虚空楽園』は、現在の流行がこういうところにあるのか、と考えさせられてしまうほど、雰囲気や流れが似ていた。そして、両方とも実に達者な書き手だと感心させられもした。前者が、パステル調の淡い雰囲気の中で繰り広げられるフリークな話。後者はもう少しグロテスクな面が強調され、エロチックな感じも漂っている話だった。いずれも佳品である上に、選考委員全員が、作者の才能を認めたが、強く推す者がおらず受賞には至らなかった。『二つの鍵』のようなパズラー物が候補に上がってきたのが嬉しかった。鍵のトリックが面白く、謎解きも整合性を持っていて、よくできた作品である。点数も一番高かったが、他の作品との差もごく僅かなものだったこともあり受賞は見送られた。
評論その他の部門は、労作『不時着』の面白さが際だっており、すんなりと受賞の運びとなった。しかし、他の四作がミステリを中心に据えた作品だったので、ノンフィクションである本書とどの点を比較して選考したらいいのか迷ったことは事実である。『ゴシックハート』はゴシックに対する愛情を感じる高感度の高い作品だった。しかし、近代合理主義からはみ出し、"異形"を扱っているわりには無難な感じがした。短編部門の候補作にホラーやファンタジー系のミステリが目立つ現在、"異端"はもはや、"異端"ではない、という気がしないでもない。『子不語の夢』は注釈が非常に面白かった。注釈でこんなに愉しんだのは生まれて初めてである。この部分だけで一冊の本になっていたら受賞したと思う。他の選考委員から、誰に賞を渡すのか分からない作品という意見が出て、受賞は見送られた。『ミステリアス・ジャム・セッション』も『ゴシック・ハート』同様、著者のミステリに対する愛情が強く感じられる作品だった(このおふたり、とてもいい方なんじゃないかなあと思ってしまいました"笑")。ただもう一歩、作家なり作品なりに切り込んでほしかった。『探偵小説と日本近代』は、近代文学を専門にしている八人の先生方の評論集。近代文学の研究者が本腰を入れて探偵小説に取り組んだ作品だけに、新鮮で貴重な意見に触れることができた。しかし、玉石混淆という感じは否めなかった。おひとりおひとりが、大衆文学一般、および政治・経済・思想・風俗等々にさらに切り込んで、探偵小説をメインに据え、近代日本を新しい視点から分析してほしいというのは欲張りすぎだろうか。閉じる
- 宮部みゆき[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短編部門では、残念ながら今年は該当作なしの結果になりました。投票での点数が拮抗していましたし、各選考委員イチ押しの作品も見事に散ってしまって、絞ることができませんでした。
そのなかで、わたしは「東山殿御庭」を推しました。さすがは『異形コレクション』の作品。レベルの高い奇譚ミステリーで、選考を忘れて楽しませていただきました。闇の虚空を飛んでゆく幼子の幻影が怪しく恐ろしく悲しく心に浮かびました。
もう一作、「二つの鍵」にも手を打って喜びました。美しいパズラーです。連作のなかの一作なので、いずれ単行本にまとまったときには、さらに大きな仕掛けが現れるのかもしれないと、期待しております。
評論その他の部門の受賞作「不時着」は、連作形式のノンフィクションで、地道なフィールドワークの積み重ねと、聞き手の人生観、人間観、戦争観を問われる厳しいインタビューの繰り返しによって作り上げられた労作です。一人でも多くの読者の目に触れるべき本で、この作品を顕彰することのできる推理作家協会賞を誇りに思います。今の出版界ではどうしても見逃されがちなこうした地味な力作を、候補作に挙げてくれた予選委員諸氏の具眼にも敬意を表します。
なお、選考とは別の事柄ですが、この「その他」という呼称を、そろそろ改める時期が来ているのではないかと思いました。ミステリー界が営々と築き上げてきた独自の方法論が、ジャンルの枠を越え、創作物を作り上げる際のアプローチとして普及している現状を鑑みれば、今後もますます、この部門にノミネートされる優れたノンフィクション作品が増えてゆくだろうことは間違いありませんので、ふさわしい呼称を考えたいものです。
「ゴシックハート」と「ミステリアス・ジャム・セッション」の二作には、著者の溢れんばかりのゴシック心への愛、ミステリーへの愛を感じました。その分、もう一歩の挑発的な突っ込みが足りなかったかなという悔しさがあります。ただ「ミステリアス・ジャム・セッション」は、従来あまり重んじられることのなかった「同時代作家の肉声」の集成として貴重なもので、そこにわたしは票を投じました。
「子不語の夢」は、書簡集として構成するよりも、むしろめちゃめちゃ面白い脚注の方を前面に出して、手紙の方は引用的な従属物にした方が、より評論として完成したのではないかという論議になりました。(もっとも、編者の皆さんが一歩下がったのは、大乱歩と小酒井不木への敬愛ゆえで、とてもよくわかるのですが)。「探偵小説と日本近代」は硬派の論考集でありますが、ミステリー界の人間であるわたしが読むと、せっかく画期的な論考を試みるならば、土足でもいいから、もっと思い切ってこっちへ踏み込んできてほしいという歯がゆさを覚えてしまいました。閉じる