2005年 第58回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
受賞の言葉
『硝子のハンマー』は初めて挑戦した本格ミステリーでしたが、トリックと解明方法、大まかな設定が決まれば書けるだろうという安易な考えで書き始めたためか、次々と現実の壁に突き当たることになりました。建築基準法が密室の障害になるとは予想もしておらず、リアルな枠組みの中で突飛な謎と論的解明を主眼としたミステリーを書く難しさを思い知らされました。
苦しんだ分だけ面白くなったという自負はありましたが、まさか推理作家協会賞をいただけるとは思ってもみませんでした。現代の密室というテーマにこだわった執念を評価していただいたとすれば、これに勝る喜びはありません。
選考委員の皆様、賞の運営に携われた方々には、衷心より御礼を申し上げます。
伝統ある賞の重みに恥じぬよう、今後とも本格ミステリーを創作の柱の一つとして精進していきたいと思っております。
- 作家略歴
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1959~
1959年、大阪生まれ。京都大学経済学部卒。生命保険会社に勤務した後、フリーに。著書に「13番目の人格-ISOLA-」「黒い家」「天使の囀り」「クリムゾンの迷宮」(いずれも角川ホラー文庫)、「青の炎」(角川文庫)がある。04年、密室を舞台にした本格ミステリ「硝子のハンマー」(角川書店)を上梓した。
2005年『硝子のハンマー』にて第58回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門を受賞。
2009年『新世界より』にて第29回日本SF大賞を受賞。
2010年『悪の教典』にて第1回山田風太郎賞を受賞。
趣味-囲碁、将棋、中国将棋、オーディオ関連
得意料理-明太子スパゲティ
受賞の言葉
小説を何作か書いていながら、自分のこと、それもこんな大きな賞を戴いた歓びを言葉にしようと思うと、情けないことにうれしいの一言しか浮かんできません。
この作品は何度も原稿をボツにして版元に迷惑をかけ続け、刊行された後も注目されることの少ない、私にとっていわば「不憫な子供」のような存在でした。それだけに候補に挙げて下さった予選委員の方々、賞という光をあてて下さった選考委員の方々には、心から感謝致します。
けれど賞の重みは、日を経るにつれてわかってくるものなのでしょう。錚々たる受賞者のお名前の端に自分が連なるかと思うと、貴重なものをお預かりしたような誇らしい緊張感が、あれ以来、心の底にしっかり根を張っています。それをいつまでも失わないように。今はそのことだけを思っています。
- 作家略歴
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1952.12.31~
学習院大卒。学習塾講師。編集プロ勤務。
代表作:剣と薔薇の夏(2004年5月刊)
趣味・特技等:映画鑑賞。落語。旅行。山歩き。ボクシング観戦。
特技は特筆するもの無し
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 北村薫[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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第五十八回日本推理作家協会賞の選考は、二〇〇四年一月一日より同年十二月三十一日までに刊行された長編と連作短編集、及び評論書などと、小説誌をはじめとする各紙誌や書籍にて発表された短編小説を対象に、昨年の十二月よりそれぞれ予選を開始した。
協会員と出版関係者のアンケート回答を参考に、まず長編および連作短編集三〇〇、短編六五九、評論その他十九作品をリストアップした。協会が委嘱した部門別の予選委員が、これらの選考にあたり、長編および連作短編集五、短編五、評論その他五の、各候補作品を決定した。
本選考会は、五月二十四日午後三時より、第一ホテル東京にて開催された。長編および連作短編集部門は、有栖川有栖、北森鴻、黒岩博行、直井明、法月綸太郎(立合理事・馳星周)、短編部門、評論その他の部門は、井上ひさし、京極夏彦、桐野夏生、藤田宜永、宮部みゆき(立合理事・北村薫)の全選考委員が出席して各部門ごとに選考が行われた。
今回は、長編および連作短編集部門で二長編が受賞することになった。一方、残念ながら短編部門では受賞作を出すことが出来なかった。詳しい選考内容については、各選考委員の選評を参照していただきたい。
選考後の記者会見には、戸松淳矩氏と日高恒太朗氏が出席し、受賞の喜び、今後の抱負などを語った。貴志祐介氏からはファックスにて受賞コメントが寄せられた。閉じる
選評
- 有栖川有栖[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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候補作が発表された時点で、一作を除いて既読だった。いずれも面白く読み、狙い違わず弾を放った作者の腕前に感心していたので、選考は悩ましい作業になった。
「どれか一作にしぼれ」と迫られたら『硝子のハンマー』を採ることに決めたのは、選考会の前日である。残る四作への未練も断ち切れず、他の委員の評に耳を傾けて、判断を変更することも充分あり得たのだが、討議の結果、『硝子のハンマー』と『剣と薔薇の夏』の同時受賞に落ち着いた。
『硝子のハンマー』は、ミステリの最も古いテーマ<密室殺人>に真正面から挑んだ作品で、本格ミステリ隆盛の近年でも稀な濃度のトリック小説である。機械的トリック、怪盗と探偵を往復する主人公といった設定の古式床しさと、ハイテクを駆使したセキュリティ・システムやインターネットの巨大掲示板といった素材の新しさが組み合わされ、独特の味わいを生んでいる。トリックは原理の似た先例もなしとしないが巧妙で、密室の精緻な<あらための妙>が素晴らしいし、否定されていく仮説もアイディアが豊かで楽しい。倒叙形式の後半で明らかになる犯人像の動機などについて、若干の無理が指摘されたが、重大なミスと見た委員はいなかった。
南北戦争直前のアメリカを舞台にし、日本の使節団が絡んだ連続殺人を描いた『剣と薔薇の夏』は、綿密な考証に基づく歴史小説の興趣と、不可解な見立て殺人という推理小説の興趣のブレンドが評価された。謎の魅力では、この作品が候補作中で随一かもしれない。執筆期間が多年にわたる労作だと聞くが、そのためか筆致に強弱、緩急がやや乏しかったことが惜しまれる。重厚な大作であるため、読み逃がしているファンも少なくないと思われ、受賞を機会により多くの読者と出会えることを望む。
『追憶のかけら』は一気読みした快作で、大いに未練を感じる。主人公が手記の真贋をあらためる手際や犯行の不確実性など、いくつかの箇所がマイナス材料となったものの、それはプロットが複雑だったがゆえのことで、<振り付けの難しいダンス>を踊ったがために不利になったように思う。
『Q&A』の実験的な手法、ミステリの根底につながる今日的なテーマ、最後まで持続する気味の悪さにも惹かれたが、他の委員から出た「途中から作品が別のものに変わっている」という指摘に首肯してしまった。それでも面白いのだが。
作品全体に仕掛けを施した『イニシエーション・ラブ』も冒険的な作品で、作者の技巧派ぶりが存分に発揮されていた。幕切れのサプライズは、候補作中でナンバーワンながら、謎を欠いたミステリの限界を感じて、受賞作には推し切れなかった。
最後に、貴志祐介さんが今後も意欲的にミステリをお書きになること、戸松淳矩さんがなるべく早くに次作を発表なさることを期待してやみません。閉じる
- 北森鴻[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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「硝子のハンマー」と「剣と薔薇の夏」のどちらを推すべきか、悩みつつ選考会に臨んだ。結果として二作授賞が決定したことで、重き荷を下ろした気分だ。貴志さん、戸松さんおめでとうございます。
ただしそれぞれの授賞がさほどすっきりと決まったわけではなかったこと。そこには両作について様々な意見があったことも、一言添えておかねばならない。貴志さんの作品はディテールと動機について、戸松さんの文章はあまりに抑揚がなく、読みづらかった点を複数の選考委員が指摘した。けれど「硝子~」に溢れるサービス精神、「剣と薔薇~」における重厚感。いずれも協会賞を受けるにふさわしいと判断した。
「イニシエーション・ラブ」は、正直いって読むのがつらい作品だった。最終数行に仕掛けられたトリックについても、古典と呼ぶべきさる作品とダブって、感心することができなかった。過去のトリックを使用すべきではないとは思わない。が、もう少し処理の方法を考えるべきではなかったか。なによりもそこにいたるまでのあまりにチープな恋愛小説世界に、我が身をゆだねることがどうしてもできなかった。
「Q&A」は、候補作中もっとも面白い小説だった。特に善意や哀愁から悪意へと転調する手際の良さは、恩田さんならではのうまさだと思った。けれど「もしかしたらこの作品は途中で設計図が変わってしまったのではないか」との思いをぬぐい去ることができず、強く推すことができなかった。
「追憶のかけら」は、どうしてもバランスの悪さが目立ってしまった。今では忘れ去られた作家の未発表原稿が、全体の半分近くを占めるのだが、ここまでの長さは必要であっただろうか。その原稿が発端となって事件は意外な展開を見せるのだが、原稿の内容そのものがあまり関係しない点が、気になった。さらに複数の選考委員も指摘したことだが、どうしても「動機」の点で納得することができなかった。住む世界が異なれば常識も価値観も異なることを作者は作中で幾度か語っているが、それでも「この動機で、ここまで大がかりな仕掛けを用意するだろうか」との疑問が最後まで残った。閉じる
- 黒川博行[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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『剣と薔薇の夏』を○、『イニシエーション・ラブ』を△、と考えて選考会にのぞんだが、他の三作にもそれぞれ読ませどころがあっておもしろく、今年はかなりもめそうだという予感があった。事実、一次投票ではほとんど票差がなく、どの作品が選ばれてもおかしくはなかった。
『イニシエーション・ラブ』ははじめ、どこがミステリーなのか分からなかった。かなり読みすすめても、事件も起こらなければ、伏線らしきものも見あたらない。そのうちに、これは青春小説であり、少しひねった恋愛小説だと思いはじめた。主人公が学生のころは、こんな頼りない男はあかんで――と、心情的にぴったりこないところもあったが、彼が就職したあたりから足が地について、結末までおもしろく読みとおした。肩肘張ったミステリー仕立てにしなかったのが、著書のいちばんの狙いだったのではないだろうか。
『Q&A』は"質問"と"答え"(つまりセリフだけ)で、スケールの大きなストーリーを構成した著者の意気に称賛を送りたい。地の文による心理描写も情景描写も許されない枷を背負いつつ、ひとつの長編小説をを仕上げるというのは並大抵の業ではないと思うのだが、恩田さんには力がある。そして巧い。ただ、理由のない大量死というのは、個人的には感情移入がしづらく、同時期にJR西日本の鉄道事故があったのも、この作品については選考においてマイナスに響いたのではないかという気がする。
『硝子のハンマー』は本格ミステリーの王道ともいうべき"密室"に正面から挑戦した。文章は的確、平明、描写は濃やか、セリフは自然、各登場人物のキャラクターも立っていて、精緻に組みあげられた伏線のひとつひとつを解きすすめる推理の楽しみがあるのだが、その反面、動機が弱いのではないかといううらみが残った。選考委員の各氏も指摘したのだが、主人公が苦労してダイヤを手にしながら、それをまたもとにもどすという心理が分からない。そうして、そこまでしながら殺人を犯す必然性も感じられない。わたしはトリックのためのトリックのような気がしたが、密室の構築と、それを解明していくストーリーの運びにはまったく瑕がない。
『剣と薔薇の夏』をわたしは推した。率直にいえば全体的にエンターテインメント性が乏しく、翻訳調の筆致はテンポが遅い。表現に強弱をつけ、大胆に省略をすれば――、と指摘したのはわたしだけではなかった。とはいえ、幕末の日本使節団をアメリカの側から書いたのはおもしろい。南北戦争とのからみや、奴隷解放運動に関する薀蓄も興味深い。読者に多くの基本知識を要求する作品だが、こういう小説もありだろう。圧巻は謎解きですべての伏線がきれいに収束された。これほどの労作を顕彰するのは推理作家協会賞しかない、とわたしは思った。
『追憶のかけら』は"手記"のある前半が楽しかった。いかにも終戦のころに書かれたような古めかしい文章がいい。もちろん、当時の状況をわたしは知らないが、手記を読んでいると情景が眼の前に浮かんでくる。その手記のところどころに伏線がひそんでいるのだから油断がならない。実に巧いと思う。ただ、中盤から結末にかけて、謎解きが二転三転するのには興をそがれた。その二転三転が本格ミステリーの醍醐味だといわれれば、わたしは返す言葉がないのだが。閉じる
- 直井明[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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受賞作の『剣と薔薇の夏』は、南北戦争前夜のアメリカを舞台に、日本のサムライ使節団が訪米しているときに連続殺人が起きるという設定で、著者の熱心な史実調査ぶりがうかがわれる重量感のある作品だが、文章が平板で、次に何が起こるのかと期待させるリズム感がない。一気に読み切れず、他の選考委員諸氏からも同じ感想が出た。
侍たちの行動と連続殺人とがいつまで経ってもクロスせずに進行していくのが意外だった。作品の構想のそもそもの出発点は何だったのか、著者に訊ねてみたら、サムライ使節団に関する資料を入手したのがきっかけだったという。つまり、まず、歴史小説として組み立てられ、それに本格ミステリ・スタイルの殺人事件を織り込んだという経緯だったようだ。
この歴史物に対し、『硝子のハンマー』は対極的に位置する。赤外線監視装置やロボット操作など、高年齢層の選者には全くブラックボックス的なハイテクが取り入れられた密室物で、ほう、こうやると監視装置をすり抜けられるのかと感心しながら読んだ。しかし、殺人まで犯す必要があったのか、会社の金を流用した隠匿財産を盗むのだから、盗まれた方も被害を表沙汰にするわけには行かない。犯人はそれを知っていながら口封じのために殺害する。この展開に疑問を持った。ともかく殺人がないと成立しないプロットなのだから、殺害の動機をもっと丁寧に説明すべきだったのではないか。
『Q&A』は、対話だけで進行する暗示的な作品だが、事件が断片的に語られるだけで、全体像が完成する前に終ってしまった印象を受けた。あと二、三章続いて、ミステリ小説らしいカタルシスのある結末を作ってほしかった。
『追憶のかけら』は、文学の講師が私立探偵のような役割を演じるのが面白く、発見された未発表原稿が贋作かというテーマも魅力的で、引き込まれたが、恨みをはらすという動機と、仕掛けに要する手間とが釣り合っていなかったと思う。
『イニシエーション・ラブ』は受賞の二作に比べると、軽い短篇的な作品に見え、損している。一見、青春小説のタッチなので、それに騙されて気を弛めていたら、最後のページで驚き、著者の狙いどおり、再読。候補作の中で最も素直に楽しんだ作品だった。選考委員諸氏からは、謎に欠けている、ミステリの匂いがしない、恋愛小説としての魅力がない、さらには仕掛けがすぐにばれてしまうといったプロの実作者らしい指摘が出たが、著者は意識的に青春小説の文体を使い、ざっと数えて、二十を越える伏線(タックってわかります?)など)を張りめぐらし、緻密に構成している。昨年の受賞作の歌野作品には本筋の事件があり、さらにその上に叙述トリックの意外性があったが、この作品には本筋になる事件がないのが不満との主張もだされたが、私には、これでもミステリ小説の条件を充分満たしていると思う。
犯罪の出てこないこういうミステリ小説もいいのではないか。結果的には、今回は、〈殺人事件〉ものの二作が受賞し、事件性のない出来事を描いた作品ははじかれる形となった。閉じる
- 法月綸太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今回の選考はむずかしかった。あらかじめ○をつけたのは『硝子のハンマー』『剣と薔薇の夏』『追憶のかけら』で、あとの二作が△評価。○をつけた三作はどれも拮抗する出来映えで、本命を絞りきれない。選考会の流れもおおむねそんな感じだった。
まず△の二作について。『『イニシエーション・ラブ』は結末の意外性に特化した実験作で、それ以外に何もないところがミソだが、さすがにこれで長編を支えるのはつらい。伏線もベタすぎるように思う。
ダイアローグのみで構成された『Q&A』は前半と後半で小説の空気が変わる。バラエティ豊かなエピソードと、巧みな語り口を堪能したが、野球にたとえると、投球のリリースポイントが早くて、ボール(=マクガフィン)に体重が乗りきっていないうらみがあった。
迷ったのはここからだ。順番に触れていこう。『硝子のハンマー』は、裏表のある探偵役のキャラクター設定と、テクニカルな密室トリックのつるべ撃ちがスリリングだった。それぞれの仮説に挿話としての工夫を凝らしている点、前半本格・後半倒叙という毛色の変わった構成も、現代的な密室小説のツボを押さえている。探偵役の魅力に比べて、犯人像にやや見劣りするところがあるのはたしかだが、キズというほどではないだろう。
いちばん読みごたえがあったのは、万延元年の遣米使節団を扱った歴史ミステリ『剣と薔薇の夏』。翻訳小説風のぎっしり詰まった文章に、最初はとまどったが、読み進めるうち、すっかり作品の虜になった。現代ミステリの標準からすると、起伏に乏しく、読者を選ぶ小説かもしれない。しかしこの文体でなければ、十九世紀半ばのニューヨークに流れるゆったりした時間に身をゆだねることはできなかっただろう。使節団を謎解きに生かしきれていないという指摘もあったが、解決の構図の美しさを引き立てるのに、十分なコントラストをなしているように思う。
終戦直後のマイナー作家の手記と、現在の人間関係が交錯する『追憶のかけら』は、手のこんだ仕掛けで読者を手玉に取る、ミステリらしいミステリだった。二転三転するプロットといい、エンターテインメント性の高さでは、三作中これが一番だろう。ただ、どんでん返しの連発は諸刃の剣で、真相が割れると、敵役であるはずの黒幕が、主人公に立ち直りの機会を与えるために、すべてのお膳立てを整えてくれたように見えかねない。読者へのサービスが行届きすぎて、悪意の所在が中に浮いてしまった感がある。
いずれの作品にも長短があり、選考会でもなかなか結論が出なかった。揉めたというより、迷いの断ち切れない議論に終始したというべきだろう。私は悩んだ末に、晦渋さに目をつぶって『剣と薔薇の夏』が半歩リード、探偵役の再登板への期待を上乗せして、『硝子のハンマー』を次点に推すことにした。最後は多数決に近い形で、貴志・戸松両氏の同時受賞に決まったが、僅差の結果だった。閉じる