2006年 第59回 日本推理作家協会賞 評論その他の部門
受賞の言葉
松本清張は愛されることの多いわりに理解されることの少ない作家である。あるいはむしろ、正確に理解されることなく愛されつづけてきた稀有な作家というべきかもしれない。いずれにしろ確かなことは、この作家があまりにも巨人すぎて、誰にもその全体像がつかめないということだ。そのために、これまでに書かれてきた清張論は、いずれも木を見て森を見ず、群盲が象を撫でるようなものにならざるをえなかった。
清張の全体像を正確に理解するためには、その全業績を一つの森、一頭の象として見渡すような視座をもった総合的な作家事典がなければならない。私は長らくその出現を待ちわびていたが、願いはいっこうに叶えられそうになかったので、無謀にもそれをひとりで作ってみようと思い立った。それから十年、たった一個の日付を確認するために各地の図書館を訪ね歩くような苦渋の日々が続いた。
今回、図らずもその労苦をねぎらっていただけたことを心から感謝している。
- 作家略歴
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1942.5.3~
島根県平田市出身。早稲田大学政経学部卒。元読売新聞記者。
詩集「カナンまで」で第二四回H氏賞、
評論「詩人の妻高村智恵子ノート」で第五回サントリー学芸賞を受賞。
2006年『松本清張事典 決定版』にて第59回日本推理作家協会賞評論その他の部門を受賞。
ミステリー関係の著書に「東西ベストミステリー・ガイド」(共著・一九九二・扶桑社)、「名探偵事典/日本編」(一九九五・東京書籍)、「名探偵事典/海外編」(一九九七・東京書籍)、「チャンドラー名言集」(一九九七・三修社)など。
受賞の言葉
「あの事件をやったのは、兄さんかもしれない」一九九一年夏の大叔母のその一言が、すべての発端でした。
以来、一四年。長年の苦節が報われた瞬間は掛け値なく心地良いものでした。この喜びをまずいまは亡き祖父と大叔母、そして私の取材に真摯に応えて下さった多くの人々に報告したいと思います。
『下山事件・最後の証言』はノンフィクションです。しかし、一冊の本として上梓する以上、エンターティーメントとしても成立していなくてはならない。その意味で審査員諸氏からいただいた「圧倒的に面白かった」という評価、心の勲章として大切にしていきたいと思います。
これからも枠に囚われることなく、様々な分野に積極的に挑み続けていきます。ちなみに次回作の『TENGU』はこの七月に出版を予定。こちらは趣向を変えて、フィクションの推理小説です。
- 作家略歴
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1957.8~
東京都武蔵野市生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退。フリーのカメラマンとして世界を放浪の後、一九八四年「私のサンタよ」(交通タイムス社刊)を発表。文筆活動に入る。一九八六年、八八年にはパリ~ダカールラリーに参戦。八八年はドライバーとして完走。
2006年『下山事件 最後の証言』にて第59回日本推理作家協会賞評論その他の部門を受賞。2006年『TENGU』にて第9回大藪春彦賞を受賞。
代表作に小説「KAPPA」(ソニーマガジンズ刊)、「バラマンディ」(同上)、「ライスシャワー物語」(経済界刊)「伝説のバイプレイヤー」(KKベストセラーズ刊)等がある。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 東野圭吾[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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第五十九回日本推理作家協会賞の選考は、二〇〇五年一月一日より同年十二月三十一日までに刊行された長編と連作短編集、及び評論書などと、小説誌をはじめとする各紙誌や書籍にて発表された短編小説を対象に、昨年の十二月よりそれぞれ予選を開始した。
協会員と出版関係者のアンケート回答を参考に、まず長編および連作短編集二四五、短編六一八、評論その他二二作品をリストアップした。協会が委嘱した部門別の予選委員が、これらの選考にあたり、長編および連作短編集五、短編五、評論その他四の、各候補作品を決定した。
本選考会は、五月十六日午後三時より、第一ホテル東京にて開催された。長編および連作短編集部門は、有栖川有栖、北森鴻、野崎六助、馳星周、山田正紀(立合理事・北村薫)、短編部門・評論その他の部門は、黒川博行、直井明、法月綸太郎、藤田宜永、宮部みゆき(立合理事・東野圭吾)の全選考委員が出席して各部門ごとに選考が行われた。
選考経過は、以下の通り。
長編部門
立合理事 北村薫
最初に各委員が、候補作すべてについて三段階で評価を行った。その結果、『ユージニア』のみが突出し、他の四作は横一線に並んだ。二作受賞も視野に入れるため、まず対象を数作にまで絞りこむべく、個々に検討した。その段階で、『家、家にあらず』はミステリとしての魅力が今ひとつということで脱落した。ここで再度、投票を行ったが、やはり、『ユーニジア』のみが飛び抜けた評価を受けた。「何度も読み返した」「昨年の候補作よりも格段にいい」等々の声が相次いだため、『ユージニア』の受賞を決定し、もう一作を合わせて出すかの検討に入った。『隠蔽捜査』には「困難なところを狙って書きながら、さすがにうまい」、『ゴーレムの檻』には「ばらつきはあるが、天才の作」、『審判』には「現代において、社会派プラス本格の融合の試みを行った」等の声があった。しかしながら、それぞれに支持者が分かれ、残る二人の委員は「今回は一作受賞が妥当」「二つ出すとなれば反対しない作が二つあるが、積極的に推す一作はない」という立場だった。結局、「第一位と第二位の評価の差が僅少ならともかく、この状態では残念ながら、一作のみの受賞とするのが妥当」という結論に達した。
短編・評論その他の部門
立合理事 東野圭吾
短編部門
最初に各委員が、候補作品すべてについて三段階で評価を行った。その結果、『壊れた少女を拾ったので』の点数が伸びず、まず圏外となった。「作品の意図が不明」といった理由が多かったが、文章力を評価する声もあった。続いて『バスジャック』が、あまりにストーリーが優等生的で冒険心に欠ける等の理由で、『流れ星の作り方』は、おとなしくまとまりすぎているといった理由で、それぞれ見送りとなった。ただし、『バスジャック』には「最も楽しく読めた」、『流れ星――』には「才能を感じられる」といった意見があった。『克美さんがいる』については、「候補作中で最も推理小説らしい仕上がりになっている」という理由で二名の委員が推したが、「冒頭で仕掛けに気づいたため、ストーリーが退屈なものになった」、「無駄な描写、会話が多すぎる」といった意見が出たため、「エンタテインメント小説として十分に楽しめる」、「語り口が楽しい」といった理由で四名の委員が推した『独白するユニバーサル横メルカトル』が、最終的に受賞作となった。
評論その他の部門
短編と同様の投票を行ったところ、『下山事件 最後の証言』がほぼ満票を集めて、まず受賞となった。「資料に頼りすぎている」という意見もあったが、「とにかく読み物として面白い」という評価がそれを上回った。ただし他の候補作についても否定的な意見を出す委員は少なく、もう一作を選ぶとすればという条件付きで票決したところ、『松本清張事典 決定版』について検討したいという意見が過半数を占めた。そこで議論を重ね、「資料として価値があるし、こうした研究を評価したい」等の理由から、二作同時受賞となった。
選考後の記者会見には、受賞者全員が出席し、受賞の喜び、今後の豊富などを語った。
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選評
- 黒川博行[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短編部門は、『独白するユニバーサル横メルカトル』を○、『壊れた少女を拾ったので』を△、と考えて選考にのぞんだ。ただ『壊れた~』については、わたしは二回読んだが、もうひとつ筋立てがのみこめず、積極的な△ではなかった。他の選考委員がどんな評をされるか、それを聞いてみたいという思いが強かった。『克美さんがいる』は、冒頭の葬式や後片付けの描写がおもしろく、これは、と思ったが、中盤から冗長になった。ディテールの積み重ねはあるのだが効果にとぼしく、余計なセリフが多すぎる。アイデアは秀逸なだけに、もっと場面の濃淡があったら、と残念に思った。
『バスジャック』は、たぶん"私"もバスジャッカーなのだろう、と途中で仕掛けが分かった。これはユーモアなのか、サスペンスなのか、SFなのか……。バスという小さな密室を舞台にした"グランドホテル形式"の小説は展開がむずかしい。その困難な設定に挑んだ作者の心意気やよしだが、わたしには緊張感が乏しく、あとひとひねりが欲しかった。
『流れ星の作り方』は語り口がやわらかく、セリフも自然で、ストレートな構成だった。情緒があるし、子どもも巧く書けているのだが、トリックが弱かった。動機や凶器や返り血など、もう少し踏み込んだ記述が欲しい。子どもの視点ならそれがあたりまえなのだろうが、半面、ミステリーとしては弱いような気がした。
『壊れた少女を拾ったので』は、わたしのほかには票が入らなかった。本質はホラー小説なのだろうが怖くない、という意見が多く、そういわれれば、わたしも怖いとは感じなかった。たぶん、この小説は読者を選ぶのだろう。花火の場面、牛と荷車を燃やす場面など、そのイメージは独特だが、理屈が通じないもどかしさもある。そこがむずかしい。
『独白するユニバーサル横メルカトル』はほぼ満票で受賞が決まった。語り口が巧く、リーダビリティーがいい。わたしは結末までおもしろく読んだ。主人公を地図にして、その視点で登場人物を動かしたのは、たぶん初めての試みではないだろうか。それがミステリー短編としてみごとに結実した。
評論その他の部門は票が割れた。『ナツコ 沖縄密貿易の女王』と『下山事件 最後の証言』はノンフィクション、『現代SF1500冊 乱闘編 回天編』と『松本清張事典 決定版』はいわば"事典"であり、ノンフィクションと事典を同じ土俵にのせてその良否を論じることはまことにむずかしい。「あなたはフグとサッカーとどちらが好きですか」と訊かれるようなものであり、選考委員の総意がノンフィクションから一作、事典から一作となるのは自然の流れだった。
『ナツコ~』は台湾や香港との密貿易から戦後沖縄史に迫った労作で、丹念な取材を重ねられたことがよく分かった。『下山事件~』はこれまでとはちがった切り口で戦後日本の裏面史に迫った力作で、『ナツコ~』とは甲乙つけがたく、ただ『下山~』のほうが事件が大きく派手なだけにインパクトが強かった。
『現代SF~』と『松本清張~』も、どちらも労作だが、十年にわたってこつこつと仕事をすすめ、一冊の事典にまとめられた作者の志をわたしは多とした。今後、松本清張を論じるときは欠かせない貴重な資料となるはずだ。
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- 直井明[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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過去の受賞作家のなかには、候補作に挙がったと聞いて、あの本は推理小説だったのかと言ったり、まさか推理作家協会から賞を戴けるとはと驚いたり、受賞して数年も経ってからあの作品は推理小説ではなかったと自覚なさった人もいたと聞く。これは、協会賞がジャンルにこだわらず、鷹揚にして間口の広い包容力のあるものであるのを示しているのだが、今年度の候補作を読んで、いくら間口の広い賞であるにしても、ここまで拡大するのかと戸惑った。私には推理小説とは思えない作品が混っている。予選委員の方々も、候補を選び出すまでに、議論があったのだろうなと想像する。
読み終えて不快感しか残らない、気味のわるい作品もあり、気味がわるいのは、乱歩さんの時代から始まった推理小説の味つけの一つだから、伝統の一端であるとしても、気味わるさだけが焦点の話を推理小説とみなすのは気前がよすぎるし、作者にしても、せっかくホラー小説のつもりで書いたものを推理小説だと言われては、ご迷惑なのではないか。
また、昨年度は該当作なしとの厳しい査定が出ているから、昨年度の候補作に比べて今年度の作品はどんな位置づけになるのかと比べてみたら、昨年度の候補作の方がぐんと面白いので、ますます困惑した。(もっとも、前年度の作品と比較するのはタブーらしいが)
選考会では、候補作のなかの最もミステリ性の強い作品、いわば読者を騙そうとする挑戦的な意図のあるものが受賞すべきだと考えて、推したが、他の選考委員各位から、冒頭の一行目から変だ・すぐに仕掛けが読めた・タイトルが悪い・むだな会話が多い・人間関係の描写にリアリティがないなど集中砲火を浴びて敢えなく敗退。時代の流れはホラー小説に向かっているらしい。世の中に後味のわるい小説があってもいいし、その手の作品を書こうと読もうと各人の自由だが、ホラー物では辻褄を合わせることは必要条件ではなく、不条理な展開・結末でも容認される。それと対極的に、推理小説は筋の整合性が要求される。今回の受賞作は極めてホラーに近い臨界線上の作品である。
評論その他の部門では、『下山事件 最後の証言』を推した。調べあげた情報をすべて盛り込もうとする作者の熱意のおかげで、下山事件に限らず、昭和二十年代の裏面史を描いた力作になった。『松本清張事典 決定版』は、独りで巨匠の全作品に立ち向かい、短編に到るまで一篇一篇を丁寧に要約し、作者の思い入れが伝わってくる作品である。
候補の四作品に共通しているのは、どれも十年以上の年月を要した労作であること、それに時代史な意味を持っていることだ。
今年度の例を見ても、この部門は、評伝・研究書とノンフィクションとの二つの部門に分けた方が自然であると思う。
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- 法月綸太郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短編部門で○をつけたのは、『克美さんがいる』と『独白するユニバーサル横メルカトル』の二作。ミステリとしての結構が整っている分、『克美さん』のポイントが高いという判断で選考会に臨んだ。ところが、直井明氏以外のお三方は「全体に冗長で、ネタが割れやすい」という理由から『克美さん』には否定的だった。私が思うに、こうした弱点(特に前半の会話の坐りの悪さ)はフェアな叙述に専念したことの副作用で、そのスタンスには好感が持てる。しかし、種明かしを引っぱりすぎて、作品の力を弱めている印象も否めない。狙いを絞りこめなかったことが、分量的なアンバランスさに反映しているようにも見え、最後まで推しきれなかった。
受賞作の『独白する~』は、地図の一人称という奇手を用いながら、執事風の語り口が絶妙の効果を上げている。トリッキーな仕掛けはないけれど、ディテールがいちいち気が利いているので、風変わりなクライム・ストーリーとして愛すべき作品だと思う。ないものねだりをすれば、刺青や編図といった小道具と、バカ息子のキャラクターの結びつきにあまり必然性が感じられないこと、起承転結の「結」の部分にもう一工夫欲しかったことぐらいか。しかし、下手に書くとアイデア倒れに終わりかねないホラ話を、説得力のある物語に仕立てた力量は見事というほかない。
つぎに評論その他部門について。読み物としてダントツに面白かったのは『下山事件 最後の証言』で、これは全選考委員の一致した意見だろう。ただ、純粋にノンフィクションとして評価するなら、文献資料に頼らず、丹念な取材を通して、知られざる戦後沖縄史を再構築した『ナツコ 沖縄密貿易の女王』の方がすぐれていると思う。『下山事件』の記述は、著者の親族の証言と既存の資料に寄りかかっているうえに、あまりにもロバート・ゴダード風の「物語」になりすぎて、眉にツバをつけたくなってしまう箇所があるからだ。とはいえ、推理作家協会賞という土俵で両者を比べると、手ごわい謎があり、徒手空拳で戦後史の闇に迫っていく『下山事件』の迫力に軍配を挙げざるをえない。
問題は、まったく性格の異なる残りの二作である。『現代SF1500冊 乱闘編 回天編』は、長期にわたる時評をまとめたものだが、時代の変化に即したジャンルの盛衰を的確に捉え、首尾一貫した評論書になっている。しかしこれはあくまでもSF評論で、十年前ならいざ知らず、今あえて推理作家協会賞に推すことにはためらいを覚える。
『松本清張事典 決定版』も資料性の高い労作で、新旧の清張読者への格好の手引きとなるだろう。選考会の席上では、地道なデータベース作業が評価され、『下山事件』と同時受賞とすべきという意見が多数を占めた。昨年に続いてノンフィクション作品のみの連続受賞となると、協会賞の方向性がますますあやふやになりかねないとの思いから、私も多数意見に賛同した。
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- 藤田宜永[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短編の候補作は、反リアリズム小説が大半だった。と書くと、リアリズム小説がないことを嘆いているように聞こえるかもしれないが決してそうではない。却って、この方が、私としては選びやすかった。『克美さんがいる』は、嫁姑の確執を中心にした、よくある家族の現実を表層的に扱うことで、面白い物語に仕上げようとした作品に思えた。エピソードを盛り込みすぎたことで、せっかくの作者の意図がぼやけてしまった感がある。『壊れた少女を拾ったので』はフリークなユートピア小説と受け取った。"きもい"シーンもあるのだが、嫌悪感はまるで感じなかった。不思議な小説には違いないけれど、その中に飛び込んでしまえば、実に調和が取れている。そこが長所でも欠点でもある作品ではなかろうか。『独白するユニバーサル横メルカトル』を私は一番に推した。ご主人にお仕えする地図が主人公だが、決して着想倒れしていない。地図を人間的に扱っているのだが、ユーモラスで、物語の運びもうまい。地図の説明も効果的である。ラストシーンに不満が残ったが、圧倒的支持を得ての受賞となった。『バスジャック』はすっきりとして分かりやすかった。システム化されたバスジャックには、規則がたくさんある。その規則を遵守し、みんなを幸せにするバスジャックは、"閉塞領域での充足性""ミステリー旅行的ロマン"をあたえてくれるのだ。自由は孤独を呼ぶ、と昔から言われているが、孤独を招いてしまう自由を捨てて、束縛の中に幸せを求めている作品。一見、ハチャメチャに思えるが、とても生真面目な小説である。『流れ星の作り方』は謎解きの入った好短編。流れ星のエピソードはとても誌的で好感が持てた。ただ受賞作としては事件性を含めて弱い感じがした。連作のようだからこれからに期待したい。
評論その他の部門は、四作ともに○をつけたい気分で選考会にのぞんだ。『現代SF1500冊 乱闘編 回天編』はSFに詳しくない私でも、作者のSFへの愛情と語り口のうまさに嵌められ、どんどん読まされてしまい、久しぶりにSFを繙いてみるかという気分にさせられた書評集だった。『ナツコ 沖縄密貿易の女王』は、丹念な調査に脱帽させられた正統派ノンフィクション。ナツコは、密貿易の女王と言っても市井の人である。資料はそれほどなく、当時を知っている人間に丁寧な取材を試みるしか彼女に迫ることはできない。ナツコの人間像をもっと浮き彫りにしてほしい、と思ったが、テーマに選んだ人物を考えると、ここまでが精一杯だろう。『松本清張事典 決定版』は作者の情熱が生み出した労作である。清張研究にとっても貢献度を考えれば、本賞から外すことのできない一作である。『下山事件』はとても面白く読めた。すでに出版されている関係書の引用が多く、祖父の関係者からの証言が未消化な感じがしたが、ページをめくらせる力のある作品だった。こう言ったら、作者に叱られるかもしれないが、ノンフィクション・ミステリに近い作品として愉しんだ。
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- 宮部みゆき[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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短編部門の候補作には、ここ数年、ホラーやダーク・ファンタジー系の作品が目立ちます。今年の受賞作「独白するユニバーサル横メルカトル」もまさにそれで、タイトルどおりの「地図」のブラックな独白に、大いに笑って楽しませていただきました。奇抜な趣向ですが、一風変わった犯罪小説としても立派に成立していますし、主人公(?)の地図を継承してしまう「お坊っちゃま」と、彼の父親である「御先代」の犯罪傾向の違いがきちんと書き分けられているところなど、細部まで丁寧な造りの作品だと思いました。「編図」との一瞬の恋も可愛らしい(と同時に笑えます!)。
黒い空想が優秀ななかで、本格謎解き系でひとり奮闘していた「流れ星の作り方」も好短編で、推したい気持ちは山々でした。ただ、私はこの作品に登場する真備・道尾・北見トリオのファンでして、デビュー長編『背の眼』も二作目の『骸の爪』も大好きなものですから、やはり彼らの物語なら長いもので勝負をキメてほしい、必ずキメられるはずだという勝手な願望と期待を抱いてしまい、今回は票を投じるのを控えてしまいました。道尾さんは、かっちりした謎解きを構成しつつ、事件の悲しみを書くことにたいへん長けた方だと思います。
評論・その他部門の受賞作は、結果として評論から一作、その他(ノンフィクション)から一作という形になりました。評論部門の『現代SF1500冊 乱闘編・回天編』と、『松本清張事典 決定版』の二作は、どちらも非常な労作で、なおかつ気軽に読めて面白く、並べて比べてどちらかを、という選び方はできません。それでも選ばねばならぬので何かとこじつけた理由は、私の場合「タイトルにど~んとSFと謳ってある著作を、SF大賞を差し置いて推理作家協会賞に選んじゃうのは、どうよ?」という苦しいものでした。大森さん、ごめんなさい!
ノンフィクションの受賞作『下山事件 最後の証言』は、本来、他の「下山本」と比べて評されるべきなのかもしれませんし、そこでも抜きん出ていることに間違いはないと思いますが、私はむしろ著者の家族・血族の物語として読みました。そのせいか、読みながらしきりと、死刑囚となった兄について実の弟が書き綴った『心臓を貫かれて』を思い出しました。どんな家族にも、それぞれに固有の幽霊が憑いているものですが、ここで描かれている家族の場合は、その幽霊が戦後史上の大事件であった――というわけで、他のどんなノンフィクションの賞よりも、まず推理作家協会賞で顕彰されるべき著作でしょう。この受賞は、推理作家協会賞にとっても嬉しいことだと思います。
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立会理事
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第59回 日本推理作家協会賞 評論その他の部門
- 『現代SF1500冊 乱闘編 回天編』 大森望
- [ 候補 ]第59回 日本推理作家協会賞 評論その他の部門
- 『ナツコ・沖縄密貿易の女王』 奥野修司