2013年 第66回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
受賞の言葉
「百年法」下巻の帯に「これ以上のものは書けません」という私のコメントが載っています。実はあれは書評用プルーフ(仮とじ本)の表紙に使うという前提で送ったものであり、まさか帯にでかでかと出るとは思いませんでした。もちろん、あの言葉を発した気持ちに偽りはありません。むしろ、作品にかけた意気込みと覚悟が読者に伝わるのならば、そして、本を手に取ってもらうきっかけになるのであれば、帯にでもなんでも使ってもらって構わない。
しかしこの度、日本推理作家協会賞をいただいたことで「そんな甘ったれたことを言ってるんじゃない」と叱咤されたような気がしています。プロであるかぎり書き続けねばならない。書くのであれば常に前作以上のものを目指す。それが賞に推してくださった選考委員の方々に応えることでもあり、読者への誠意でもある。
「百年法」を超えるものを書く。この決意を以て受賞の言葉にさせていただきます。
- 作家略歴
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1965.11.2~
愛知県犬山市生まれ。筑波大学大学院博士課程農学研究科中退。
製薬会社勤務のかたわら小説を書き、1998年、「直線の死角」で第18回横溝正史を受賞する。さらに、「死者の鼓動」「黒い春」と医学を絡めた長編を発表。2013年『百年法』にて第66回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門を受賞。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
- 真保裕一[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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≪長編及び連作短編集部門≫ 真保裕一
例年どおり、受賞作にふさわしいと思われる候補作を最初に上げてもらい、その後に一作ずつ細部の検討へと移った。今回は積極的に推せる作品がなかったという選考委員もおり、長所や将来性を認められながらも欠点を指摘され、三作品が選外へと落ち着くことになった。
この協会賞では、当該作者の過去の業績を加味することを妨げない、という内規がある。ある作品については、その面からも慎重な論議がおこなわれたが、『百年法』を積極的に推す選考委員が多く、一作受賞に決定した。
≪短編部門・評論その他の部門≫ 道尾秀介
選考会は「短編部門」から開始され、最初の投票で「暗い越流」が最高得点を集め、「宗像くんと万年筆事件」が僅差で次点につけた。他の三作についてもそれぞれ議論が行われたが、強く推す選考委員がおらず、二作のうちどちらかを受賞作とする(あるいは同時受賞とする)という前提で以後の話し合いが行われた。「宗像くん…」の読後感の良さや解りやすさは全員の認めるところではあったが、そこが安直さに繋がっているとの指摘もあり、「暗い越流」が持つ現代性、安定感、タイトルの奥深さなどを推す声に負かされるかたちで、こちらが受賞作に決定した。
「評論その他の部門」については異種格闘技戦だったため受賞作の決定に時間を要したが、最初の投票で僅差の最高得点を集めた「『マルタの鷹』講義」について、(ミステリー的な)展開の上手さ、読み物としての面白さなどを推す選考委員が多く、また瑕疵の指摘も少なかったため、受賞作となった。閉じる
選評
- 井上夢人[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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候補五作、ハードボイルド、青春、歴史、怪奇、SFと見事にジャンルを分け、これらを一括りにするには、なるほど《ミステリー》以外にあるまいなどと、妙なところで感心させられた。とにかく、これほど多彩な小説たちを差し並べ、優劣をつけて一つ選ぶとは、まるで私と仕事とどっちが大事なのと詰め寄られているようで中々どうして胸が痛む。選ばれる側も、さぞ居心地の悪い思いだろう。
そんなことを考えながらも、この候補作の中からなら『百年法』しかあるまいと思いつつ選考会に臨んだ。現代版『ガリバー旅行記』のような寓話世界の構築が見事で、上下巻のボリュームもあっという間に読み終えてしまう。国の運命を左右する登場人物たちの判断があまりに幼稚で理解できないという指摘もあったが、現実の愚行の歴史を振り返るまでもなく、作品の世界観を成立させる手続きとして相当の説得力を持っていると、私には思えた。こういったシミュレーション・ノベルでは、想像の翼が作品の隅々までどれだけ説得力を持って拡げられているかが面白さを決定する。この作品はその点で周到だと感じた。スペクタクルな興奮が読者にダイレクトに伝わってくる。授賞を大いに喜びたい。
『猿の悲しみ』は円熟味を感じさせるハードボイルドだ。ああ自分は今極上の小説を読んでいるという満足感を与えてくれる。読者にストレスを感じさせない物語の造りは実に自然で小気味よいが、ただその引っかかりのなさが物足りない読後感を持たせてしまっているのかもしれない。ミステリー読みをした私は、離婚調査と殺人調査の二つの案件が最後にどう繋がるのだろうと余計な期待を持ってしまった。推理作家協会賞というリング上では、やや作品が小振りであった気がする。
『幽女の如き怨むもの』は、その怪奇的な舞台演出の巧みさが光っていた。単調になりがちな物語の展開も、語り手を変え叙述に変化を持たせることで読者の興味を繋ぎ止めている。ただ、一人三役のトリックは無理がありすぎる。トリックを成立させるためにはさらに工夫が必要だっただろう。第三部の最後を文章の途中で切ってしまうという演出も、あまりに不自然でかえって興醒めした。独特の空気感を味わえる佳作だっただけに、残念だった。
『千年ジュリエット』は、その内容も筆致も清涼感があって若々しい。なにより小説に悪いヤツが出てこない。ただ、私はこの小説の読者として相応しくないと感じた。申し訳ないが、安っぽいテレビドラマを観ているような印象が最後まで拭えなかった。その感覚は自分の年齢に因るものかもしれないと、判断は他の選考委員に譲ることにした。
『帝の毒薬』は力強い作品だと思う。しかし、肝心の帝銀事件の真相の行き着く先がまったくの〈定説〉通りで新鮮味がない。荒唐無稽であっても定説を覆す技を見せていただきたかった。閉じる
- 香納諒一[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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『帝の毒薬』は戦前、戦後史を貫く闇の部分に光を当て、細菌部隊と帝銀事件を結びつけた意欲作だった。戦前の日本は何もかも悪かったけれど、アメリカに鉄槌を下されたことによってすっかり立派な良い国になりました、といったような歴史観を、私は幼いものだと思っているし、そういった歴史観に蝕まれている現代の日本に危機感を覚えてもいる。だからこういった作品を歓迎したい。しかし、登場人物が全体にやや類型的なことと、肝心な謎解きのあとに見えた真相にあまり目新しさが感じられなかったことが残念だった。
『千年ジュリエット』は、可愛らしい作品だった。日常の小さな謎の呈示の仕方にも、それが解けた時のオチにも一工夫が凝らされていた。どの謎解きも、そのキャラクターがあってこその余韻といったものを残す仕組みになっているところが、何より巧いと感じた。しかし、キャラクターの造型に小説的な奥行きが過不足なくあるかということになると、首を傾げざるを得なかった。とはいえ、学園祭を前にした生徒たちの絡みはどれも誠に楽しく、今度は違う世界を舞台にした作品で、この作者の手腕を拝見したい。
『猿の悲しみ』と『幽女の如き怨むもの』の二作は、作品の雰囲気作り、キャラクターの立ち上げ方、それを支える文体など、どれを取ってもしみじみと「プロの仕事だな」と感じさせてくれた。この点については、同業者という立場から舌を巻くばかりだった。ただ、趣の異なる二篇ではあるが、ともにクライマックスの謎解きに至って、この作品をぜひ受賞作に、と強く推すまでの感動を得られなかった。種明かしになってしまうので詳細が書けず、舌足らずな表現になってしまうことが心苦しいが、私は『猿の――』では共犯の男が殺人を犯す動機や、主人公が主犯との間である種の心の交流を持つに至る過程の説得力に疑問を覚えたし、『幽女――』では主犯の動機にも、なぜ主犯についての視覚的な手がかりに、登場人物の誰もが気づかないのかという点にも、どうも納得ができなかった。
『百年法』は大変な意欲作だと感じたが、別の理由でやはり自分から強くは推せなかった。それは、作品を読んでいる間中ずっと、ひとつの違和感が頭を離れなかったからだった。一言でいうと、この作品は、誰もが永遠に生きられる体を持ってしまった「日本」で、百年経ったら死なねばならない「百年法」を巡って展開する。しかも、そういった緊急事態を打開するために、政府は期限付きの「独裁者」を立てることにする。つまり、舞台は日本でありながらも、社会を取り巻く空気感といったものは、現実の日本とは大きく異なるはずだが、私にはそれが皮膚感覚としては感じられなかった。官僚と政治家の争いや、社会の底辺で暮らす人々の姿、さらには「百年法」に従おうとはしないテロリストなど、設定に様々な趣向が凝らされてはいたが、それがどこかまだ設定の域を出ず、「百年経ったら死なねばならないと突きつけられ、期限付きとはいえ独裁者の下で暮らす人間というのは、なるほどこういうものなのか」というふうに、理屈を抜きで心の底から納得することはできなかった。――以上のような点を、御隠居さんよろしく指摘しつつも、しかし一方、その設定自体は抜群に面白く、読書体験としては正にハラハラドキドキの連続であり、いったい次はどうなるのだろうという興味で先へ先へと読み進めた。正に巻を措く能わずであり、最終的にはその点に一票を投じた。山田さん、おめでとうございます。閉じる
- 貴志祐介[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今年は、昨年以上の激論を経て、受賞作が決定した。論議の中で読み方が深まっていき、協会賞の選考基準についても知見を広げることができたのは有意義だったと思う。
「帝の毒薬」は、帝銀事件をテーマにした労作だが、ミステリーとしての詰めに甘さを感じた。平沢死刑囚が無実である根拠が毒物の種類以外に示されていないし、「倉田部隊」の犯行とする根拠も直感の域を出ていない。また、実在の人物や事件と、架空の存在とを混ぜ合わせるやり方も、恣意的にすぎるのではないか。
「千年ジュリエット」は、シリーズ化された連作短編集であり、現代のキャラクター小説の見本だろう。しかし、惜しむらくは謎解きの切れ味に欠ける。たとえば、●●のために、なぜタクシーに乗って走り回らなければならなかったのか、説得力が感じられなかった。「日常の謎というジャンルはない」という貫井選考委員の言葉が、印象に残っている。
「猿の悲しみ」は、昨年に引き続いて、名手の作品である。脚線美と暴力のスキルを併せ持つ主人公や、よく出来た息子のキャラクターは魅力的だった。しかし、事件の真相そのものに意外性がなく、謎解きも急転直下で、カタルシス一歩手前で終わってしまった感があるのが残念だった。
「幽女の如き怨むもの」には、限りなく○に近い△を付けた。どこともしれぬ地方都市の遊郭を舞台に、独自の作品世界が立ち上がっている。時を経て、三度も繰り返される遊女の身投げも、不気味なムードを醸し出す。問題は謎解きで、すべてを説明しすぎて世界が小さくなったように感じた。特に、小説家の死の真相には、もう一工夫必要だろう。また、中心となる緋桜の行動が周囲にわからないはずがないという批判には抗し得なかった。
「百年法」に、私は自信を持って○を付けた。最初は、マンガやドラマによくある設定の作品ではないかと思ったが、ページを繰る手を止めさせないテンポの良さもさることながら、「時間」という巨大なテーマに真正面から挑戦した意欲作であることに感銘を受けた。特に、有り余る時間を得た人間が、成熟することなく創造性を失うという設定や、恋愛に興味をなくして食欲へと走ったり、「自分」中心の人生に飽き飽きしたという述懐など、作家の想像力が縦横に駆使されている。前半のヤマである国民投票も、緊縮財政を否決したギリシャに通じるようなリアリティを感じさせた。韓国や中国への言及が多かったので、どこかで日本に干渉してくるエピソードもあったら面白かったと思うが、これは無い物ねだりというものだろう。
三人が最初から強い○を付けての受賞であり、この作品によりエンターテインメントの地平がさらに広がったことに、お祝いを申し上げたい。閉じる
- 貫井徳郎[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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今回はオリジナリティーの点で難のある作品が、候補作五作中三作ありました。『帝の毒薬』、『千年ジュリエット』、『猿の悲しみ』です。定型の面白さを否定するわけではありませんが、賞の俎上ではやはり弱いです。
その点、『幽女の如き怨むもの』のオリジナリティーには文句がありませんでした。三代記といえば通常、祖父、父、私の血縁三代となります(むろん、女性の場合もありますが)。しかしこの作品は、場所が同じで経営者が違う廓の三代記という、画期的なアイディアを盛り込んでいました。もうそのアイディアだけで、高く評価しました。
そもそもこのシリーズは、怪異は起こるという前提の世界で展開していました。とはいえ、あらかたの怪奇現象は人智で解明でき、残った一割が怪異だったというのが通例でした。ですが今回は、人為と怪異の割合が半々です。メインとなるトリックそのものも、普通に読めば「いくらなんでも」と言いたくなる無茶なものですが、それも怪異であったというのが作者の意図だと解釈しました。トリックを成立させるための工夫を、作者は意図的に放棄しているように読めたからです。
ただこうした解釈は、シリーズの読者にしか不可能です。もしこの作品が推理作家協会賞を受賞したなら、それで興味を持って読む読者もいるでしょう。そうした読者にとって、怪異の半分が説明されずに偶然で片付けられている本作は、理解が難しいと予想されます。場合によっては作者と推理作家協会賞の両方に失望することにもなりかねません。それは不幸なことなので、作品としては高く評価しましたが、受賞には反対しました。賞はやはり、一見さん向きの作品で取った方がいいです。
受賞作となった『百年法』を私は推しました。エンターテインメント小説は大別して、単なる娯楽作品と思索型エンターテインメントがあります。どちらが質的に上ということはありませんが、思索型の方が書くのが難しいのは確かです。『百年法』はその作例の少ない思索型エンターテインメントであり、しかも難しいテーマを扱っているにもかかわらずリーダビリティーが高い面白い小説である点を評価しました。
「もし」の世界で、あらゆることを想定して考え抜いてある点もよかったです。作者の努力と、この作品にかける熱意を感じました。
むろん瑕疵がないわけではなく、選考会ではその点を指摘されましたが、解釈の問題によるところもあり、票を投じた選考委員の意見を覆すまでには至りませんでした。結果、候補作の中でダントツの得票数で受賞が決まったのは、この作品を楽しく読んだ読者として嬉しいことでした。山田さん、おめでとうございます。閉じる
- 山前譲[ 会員名簿 ]選考経過を見る
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フィクションとはいっても、現実社会とまったく切り離したストーリーは不可能だ。ミステリーはその現実を背景としながら、虚構である謎を構築していく。ただ、行間で現実があまりにその存在をアピールしていると、ついついその現実のほうに目がいってしまう。
『帝の毒薬』(永瀬隼介)は、旧満州国で生物兵器を研究していたとされる部隊に始まり、一九四八年に起った帝銀事件の捜査が描かれていく。ともにあまりにも有名な歴史のひと齣である。それをあらためて取り上げているからには、何か新しい視点を期待するのは当然だろう。だが、それは満たされなかった。また、終盤の冒険小説的な展開はじつに楽しかったけれど、作品全体のトーンからは違和感があった。
『幽女の如き怨むもの』(三津田信三)も、戦前から昭和二十年代にかけての物語で、ある地方の遊郭(正確に言えば戦後のものは違うのだが)を舞台にしている。だから、どうしても参考文献によるところはでてくるだろう。花魁の日記、女将からの聞書き、作家の連載記事によって描かれる、三代にわたる怪しい事件に、刀城言耶の出番が少なく、謎解きにこれまでほど不可能興味が横溢していない。ミステリー的には作品全体に仕掛けた趣向が眼目となるのだろう。けれど、それは無理筋としか思えなかった。
『猿の悲しみ』(樋口有介)は現代を舞台にしたハードボイルドだが、これもモデルとなった団体や会社などがすぐに目に浮んでしまう。殺人罪で服役したことがある、弁護士事務所の女性調査員のキャラクターはユニークだった。ただ、彼女の調査はスムーズすぎるのではないだろうか。他のシリーズの登場人物が顔を出すあたり、読者を楽しませるテクニックは申し分ないのだけれど。
高校の吹奏楽部にスポットライトを当てたシリーズの一冊である『千年ジュリエット』(初野晴)は、これまでの展開を踏まえての描写はもちろんあるけれど、吹奏楽部にこだわらない謎解きが多く、ミステリーとしては一番楽しめた。作品世界には独自のものがあると思う。
『百年法』(山田宗樹)はやはり、百年限定の不老化処置が行われているという設定が際立っている。組織と個人にもたらした影響が一種のサスペンスとなり、その切迫感についつい感情移入してしまう。だが、ポリティカル・サスペンス(あるいはアクション)の色合いが濃い下巻になると、それが冷めてしまった。そして、虚構のなかに現代日本を見据えているのは分るけれど、そこにミステリーとしての興味はさほど湧かなかった。ただ、その骨太な世界観に、ミステリーとしての楽しさで対抗できる作品が、候補作のなかには見当たらなかったのである。閉じる
立会理事
選考委員
予選委員
候補作
- [ 候補 ]第66回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
- 『帝の毒薬』 永瀬隼介
- [ 候補 ]第66回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
- 『千年ジュリエット』 初野晴
- [ 候補 ]第66回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
- 『猿の悲しみ』 樋口有介
- [ 候補 ]第66回 日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門
- 『幽女の如き怨むもの』 三津田信三