2018年 第71回 日本推理作家協会賞 長編および連作短編集部門
2018年 第71回 日本推理作家協会賞
長編および連作短編集部門受賞作
いくさのそこ
いくさの底
受賞者:古処誠二(こどころせいじ)
受賞の言葉
このたびは栄えある日本推理作家協会賞に拙作『いくさの底』をお選びいただきありがとうございます。選考発表の時間には自宅待機しているよう出版社に厳命されておりましたが、よもや受賞になろうとは思いもよらず、ご一報をちょうだいしたときは席を外しておりました。不徳の致すところです。
今はただ喜びの渦中にあります。
身に余る栄誉という他ございません。
これもひとえに愚作の数々を読み継いでくださった読者の皆様のおかげであり、適切な助言とお仕事の依頼をくださった出版社の皆様のおかげです。
小説はひとりで書けるものではないと言われます。まさに真理です。身に余る栄誉に得た力のすべてを執筆に注ぎ込み、さらなる精進を続ける決意でおります。
読者と出版社に恩返しの機会を与えてくださった日本推理作家協会の皆様に厚く御礼申し上げます。
選考
以下の選評では、候補となった作品の趣向を明かしている場合があります。
ご了承おきの上、ご覧下さい。
選考経過
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第七十一回日本推理作家協会賞(ミステリーグランプリ)の選考は、二〇一七年一月一日より二〇一七年十二月三十一日までに刊行された長編と連作短編集および評論集などと、小説誌をはじめとする各紙誌や書籍にて発表された短編小説を対象に、昨年十二月よりそれぞれ予選を開始した。
長編および連作短編集部門と短編部門では、例年通り各出版社からの候補作推薦制度を適用した。なお推薦枠を持たない出版社からの作品については、従来通り予選委員の推薦によって選考の対象とした。
長編および連作短編集部門では出版社推薦と予選委員の推薦による九三作品、短編部門では出版社推薦と予選委員推薦による四〇二作品をリストアップし、協会が委嘱した部門別の予選委員がこれらの推薦にあたり、各部門の候補作を決定した。
本選考会は四月二十六日(木)午後三時より、新橋第一ホテル東京にて開催された。長編および連作短編集部門は、垣根涼介、長岡弘樹、深水黎一郎、麻耶雄嵩(立会理事・北村薫)、短編部門と評論・研究部門は、あさのあつこ、逢坂剛、大沢在昌、黒川博行、道尾秀介(立会理事・月村了衛)の選考委員が出席して、各部門ごとに選考が行われた。
なお、長編および連作短編集部門選考委員である藤田宜永氏は、入院加療のため、事前に選考委員を辞退されていたが、今期は欠員の補充は行わず、前記の四氏による選考となった。
受賞作決定後、午後六時より北村薫立会理事の司会進行により、短編部門受賞者の降田天氏(鮎川颯氏と萩野瑛氏)を迎え記者会見が行われ、深水黎一郎氏と黒川博行氏からそれぞれの部門の選考経過の報告があった。その後、降田天のお二人が受賞の喜びを語った。また長編および連作短編集部門受賞者の古処誠二氏から、受賞を喜ぶメッセージが届き、受賞作の担当編集者が代読した。
詳細な選考過程は以下の通り。閉じる
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『インフルエンス』は閉塞感無力感がよく出ており、『冬雷』は堂々たる筆致である、という声もあったが、それぞれ残念なところがあり指示を得られなかった。続いて『かがみの狐城』は、若い読者の共感を呼ぶであろう作だが、ミステリ的には物足りないということから、残り二作に絞られた。
共に、委員の最初の投票による得点も飛び抜けて高かった。ここから先は、双方を推す意見が出て、かなり長い論戦が続いた。一時は、二作授賞も考えられた。
まず、『いくさの底』がミステリとして群を抜いた出来であり、それとテーマが密接に結びついている――として決まった。続いて、『Ank:mirroring ape』を合わせて授賞とするかどうかの検討に入った。最も驚きと迫力を感じさせる作だが、前半が素晴らしいだけに後半が物足りない――という意見も出て、『いくさの底』の単独授賞と決定した。閉じる
選評
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選評
プロの作家が骨身を削るようにして書いた小説の選評など、我がことをいったん棚上げしなければ、とても正気で出来たものではない。そのことを踏まえ、以下を記す。
『いくさの底』――この作家の一貫した創作姿勢には、以前から尊敬に近い気持ちを持っている。無駄を削ぎ落した文体で、その表現には大げさなものも、見せ方の外連味も一切ない。軟骨を噛むようなコリコリとした読み応えが心地いい。書かれている人物と設定はごく狭い範囲に限定されている。が、戦争という極限状況を通しての人間を見る目に、この作者独自の奥行きと広がりがあるので、籠り感はない。このあたりはさすがだし、仕掛けも手堅くまとめ上げられている。
『Ank: a mirroring ape』――類人猿から猿人、人類への変遷の過程と枝分かれというテーマの取り方が秀逸である。歴史と同じく人類の歩みも唯物史観的に一直線に進むものではなく、何度も停滞し、分岐し、時に袋小路に入って淘汰された、現時点でのたまたまの結果だということを暗示している。このテーマ性がある種の精神性を醸し出し、随所で思弁的な内省と哲学的なセリフを生み出す。物語のエッジとなっている。驚くのは、この主題が知的興奮を伴うエンタテイメントとしてちゃんと機能していることだ。後半、様々な仕掛けを完全には回収できていないし、描写にも滋味がないが、この書き手には明らかに知への希求がある。その激しい渇きが私を感動させる。この作品を、一番に推した。
『かがみの孤城』――経済的愛情的に過不足のない家庭に育ったがゆえに、真面目かつ多少他力本願的な女の子が、いじめに巻き込まれる。既にこの初動設定で、多くの読者にとって間口が広く、敷居も低い物語となっている。文章の入力も柔らかい。痒いところに手が届くような感情のくすぐり方も上手い。残念なのは、自分たちが現実世界で出会えないと気づく時点でパラレルワールドという(子供たちの)発想になることだ。そうと取るには、それまでの細かな言い回しや設定に微妙な違和感が残る。その後を読み進めるとやはりタイムスリップ形式で、この中盤の繋ぎ方はもったいない。終盤、文体にも若干緊張感を欠いていた。
『インフルエンス』――初動設定は『かがみの孤城』と同じく学校の人間関係だが、経済的文化資本的に恵まれた子供たちではないので、逃げ場のない閉塞感の中に巣くう無力感、絶望感が、よりヘヴィでリアルである。知らないうちにスポイルされ、歪んでいく個々の現実認識が、友人関係の中で相互不信と共依存を生み出す。その構造ゆえ、自己の足元を常に疑う内省表現が秀逸になる。そして皆、自己懐疑と世間への不信の念を引きずりながら生きていく。文体もしっとりとほの暗く落ち着いている。作家と友梨という二視点の小説であるが、この作家の視点は不要なように思う。「影響、感化力」というテーマ性を強くダメ押ししてこないし、仮に強調されたにしても、落としどころの見つけにくい結末である以上、それは傍観者である作家の自意識の再認に過ぎない。しかも結末を知るには、作家と友梨が偶然にも中学の同級生だったという、ご都合主義な設定が捻じ込まれている。友梨、真帆、里子の三視点で話を紡いだほうが、もっと原罪意識と自己懐疑の内省が多面的に輝く物語になったのではないか。
『冬雷』――田舎に特有の因習と血の呪縛に塗れた閉塞感が堪らない。人間関係に絡めとられて生きざるを得ない人物たちが切ない。読ませる。ただし、文章には安易な体言止めや無駄な描写が多い。また、ここまで多くの登場人物たちが、秘密を保持したまま長年にわたって共有し続けられるのかという疑問も湧く。しかし、実に様々な要素を力業でまとめ上げていく終盤には迫力があった。
『Ank』を最後まで推したが、正直、『いくさの底』との評価の差は、個人的にも僅かしかなかった。さらに物語の回収の部分で、どちらがより日本推理作家協会賞に相応しいかと議論になった時、受賞作の優位性に改めて納得せざるを得なかった。閉じる
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選評
読後に最も「胸に残る」作品を推したいと考えたのは昨年と同じ。ただ、本賞の性格を考えると、知的エンターテインメントとして「脳に残る」作品でもあってほしい。そうした観点から選考に臨むことにした。
『インフルエンス』。女三人の関係を一視点だけで描いているため、他の二人の仲がどう深まっていったのかがいま一つ見えてこなかった。ここがクリアに分かれば、物語の輪郭がもっとはっきり読者の前に立ち現われていたように思う。全選考委員が指摘したとおり、枠物語(額縁構造)にした意味が希薄だったのも残念。とはいえ、新手の交換殺人ものとも言えるアイデアが盛り込まれていて、ミステリ的にはかなり興味深い作品だと感じた。
『かがみの孤城』。長尺でも読みやすいのは、文章の平易さに加えて、主人公の心理がたいへん丁寧に描かれているためだろう。その点は高く評価しつつも、物語の内容について言えば、ファンタジーの度合いが高過ぎるのではないかと感じてしまった。ここまで現実の縛りが外されてしまうと、胸には残っても脳には残らず、本賞にふさわしい作品なのかどうか疑問を持たざるをえなかった。
『冬雷』。出自、因習、愛情。いろんなものに縛られた不自由な人たちの物語で、読んでいるこっちまで息苦しくなる。BGMとして演歌が聞こえてきそうな独特の雰囲気を、私は大いに楽しんだ。しかし、殺人事件が偶発的なものであるため、やや物足りなさを覚えてしまう。加えて、その罪を町の人々が協力して隠蔽したという真相にも無理があり、これも残念ながら脳に残る作品とはなりえなかった。便箋に描かれた鳥の手掛かりなどは見事だっただけに、とても惜しい気がした。
『Ank: a mirroring ape』。どこまでが科学的事実で、どこからがフィクションなのか。門外漢には判断がつかないが、虚実の皮膜で読者をもてなす作者の腕前は確かなもので、候補作中最も興奮して読めた。
ただし、冷静に振り返ってみると、基本的な部分に疑問が残る。鏡像行為や言語獲得に関する謎の答えを主人公は得るが、その解明過程を描くのに、京都暴動ほどの騒ぎは必要だったのか。言い換えれば、この物語は、謎解きによって得た答えを上手く利用してこの大騒動を収束させる、という筋であるべきではなかったのか。そのように各要素が密接に結びついてカタルシスをもたらす形になっていたら、脳に残るという観点で突出しているこの作品を、私はもっと強く推していた。
『いくさの底』。真相を解明する場面が、いわゆる「犯人の自白」形式に過ぎず、何とももったいない。用意されている情報はたしかに意外だが、それを提示するシーンの作り方に工夫が乏しいせいで、衝撃度が減殺されてしまった。また、二つの殺人がどう結びついているのか、一読しただけでは分かりづらいのもマイナス要素だと思った。
そうした不満を補って余りあるのが、非常に洗練された文章だ。読者の思考を何歩か先取りするかのような書き方もなされているため、ときに読みにくいと感じてしまうほどだが、一文ごと相当吟味してあることは疑いようがない。これだけの情報を盛り込みながら、わずか二百ページとコンパクトに収まっている理由の一つは、言葉から無駄がしっかり取り除かれていることにあるのだろう。この一点の素晴らしさを買い、授賞に賛同した。閉じる
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選評
『いくさの底』を強く推すつもりで選考会に臨み、その通りの結果になったので満足している。
本作は戦争文学と本格ミステリーが奇跡的な融合を果たした異色の傑作で、戦争を賛美も断罪もしないが、真相がわかった時に立ち騰ってくる哀しみは深く心を打つ。まるでその場に居合わせたかのような手触りに満ちた、虚飾を徹底的に排した文章も一級品であると感じた。
ただしあまりにも描写がストイックすぎて、ミステリーとしての高い完成度に気付かないまま読了してしまう読者の存在も予想される。選考会では、細かい事実や伏線を、全員で確認してからの授賞決定となった。
また他の四作も、大いに楽しめた。
『Ank: a mirroring ape』は候補作中、最もスケールの大きい作品で、『いくさの底』と最後まで受賞を争った。まるでハリウッド映画のような風呂敷の広げ方と外連味には、惚れ惚れとするところがあった。
惜しむらくは、アンクの発する警戒音が何故そのような現象を引き起こすのか、一番作り込むべき点の説明が弱かったこと、後半に結成される三人のチームが、いまいち機能していないことである。特に前者に関しては、疑似科学でもいいから納得させてくれたら結果は違っていたかも知れない。
『かがみの孤城』は非常に間口の広い作品で、ベストセラーになるのも当然と言える。有名な賞を既に受賞しており、選考会に臨むまでは、正直何人かの選考委員がこの作品を推すものと予想していた。
そうならなかった理由は、一にも二にもこの作品はミステリーというよりはファンタジーに属するものという、カテゴリーエラー的な認識によるものだ。過去において、ファンタジー色が強い作品が受賞した例は確かにあるが、今回の選考委員には、推理作家協会賞である以上は、ミステリーとしての骨格を重視して選考したいと考える人間が、揃っていたように思う。
『冬雷』は美しい情景と、その情景に隠されたどろどろの人間関係の対比を上手く描いている。古い因習に満ちた村における息苦しさも良く伝わって来る。ただし犯行が衝動的なものだったこと、その隠蔽に多人数がかかわっていた点が、ミステリーとしての弱さにつながってしまった点が残念だった。
『インフルエンス』は、リーダビリティが高くて一気読みだった。ただ聞き手である作家の「わたし」が、最後まで傍観者に留まるのが不満だった。枠小説の枠が最後に壊れ、「わたし」が主人公の女性たちと同級生だったという設定がもっと生かされたら、もっと票を集めただろうと思う。
いずれにしても受賞するしないは、時の運にも大きく左右される。作家という終わりなき長距離走に身を投じた以上は、走り続けるしかないと痛感した選考会だった。閉じる
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選評
今年は選考会の時点で、候補作五作中四作が既に何らかの賞を獲っているという激戦。当然ながら読み応えはどれも充分だった。となると推理作家協会賞であるので、小説の完成度だけではなく、ミステリー部分の充実度がポイントになってくる。
『冬雷』は閉鎖的な田舎町の雰囲気と、因習に翻弄される主人公の姿は丹念に描かれていたが、いかんせん肝心の殺人事件の真相が弱かった。話を進めるための偶然の多用と真相を知る関係者の多さが、ミステリー的なカタルシスを弱めていたように思う。
『インフルエンス』は少女たちの閉塞的な息づかいは生々しく面白かったが、終盤のミステリー的な仕掛けが、それによって世界が大きく変わるわけでもなく、不発弾のようにあっさり終着していく。そのため主人公の作家の立ち位置が、より微妙なものに感じられた。
『かがみの孤城』は子供たちがどういう結末を迎えるのか、読んでいる最中はこれが一番わくわくした。ただ、どうしてもファンタジー設定の曖昧さがネックになり、ミステリー的な仕掛けはあるのだが、”なんでもあり”なためにサプライズが弱くなった。ファンタジー要素が物語の面白さの柱となっているのだが、ミステリー的には足枷になってしまったのが残念。
『Ank: a mirroring ape』は中盤まではもの凄い大作を読んでいる気にさせられた。期待感が膨らみすぎたせいか、後半が物足りなかった。人類がなぜ自我や言語を持ったのかという謎を、鏡像から解き明かすというテーマに貫かれているのだが、終盤、それまで緻密に積み上げられた科学の理論武装が追いつかず詩的になり、ロマンが剥き出しになってしまった。裏張りされないロマンはミステリーとしても弱く、また物語的にも主人公のトラウマ程度でアンクに対抗できてしまうのかという、がっかり感はあった。
『いくさの底』はミステリー的なプロットやトリックが五作の中で突出していた。加えて太平洋戦争というと対アメリカがすぐに浮かぶが、それ以前の、インドシナでの同じアジア人たちが入り乱れた戦いという状況が、トリックに上手く活かされている。
終盤までまるで日本の片田舎で起こっているように淡々と語られ、主人公も茫洋としている。それ自体は構わないのだが、最後に対決する犯人の熱弁とのギャップに戸惑った。結局、主人公は気圧されながらただ犯人の話を聞くだけ。犯人が背負った重みに相応しい熱量で冒頭から描いてくれれば、あるいは逆に最後まで淡々と終わってくれたらと、構成のアンバランスさが惜しく感じられた。
個人的に最後の三作は、素晴らしい中に少し不満が残るという意味で優劣をつけがたかったが、ミステリーの賞という観点からだと、トリックに勝る『いくさの底』の授賞は妥当だろう。閉じる